新日本フィル定演 #20〈ルビー〉ハイドン:オラトリオ《四季》/聴衆の高齢化について【追記】

新日本フィルの定演 ルビー〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉でハイドンのオラトリオ《四季》(1801)を聴いた(2月15日 14:00/すみだトリフォニーホール

指揮:ソフィ・イェアンニン

ソプラノ:安井陽子

テノール:櫻田 亮

バス:妻屋秀和

合唱:栗友会合唱団

合唱指揮:栗山文昭

コンサートマスター:崔(チェ)文洙

台本は《天地創造》同様、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン。前者の原作はイギリス詩人ミルトンの『失楽園』だが、本作はスコットランド詩人ジェイムズ・トムソンの同名叙事詩(1726-30)に基づく。

音楽は「春」「夏」「秋」「冬」を、オケ、合唱、三人のソロイスト——シモン(バス)、ハンネ(ソプラノ)、ルーカス(テノール)が巡っていく。シモンは老いた農夫、ハンネはその娘、ルーカスはその恋人らしいが、老年と男女の若者を代表してもいる。聞きどころは少なくない。自然を描写するフレーズなどは後のベートーヴェンの「田園」みたいだし、「夏」を締め括る嵐の後の三重唱と合唱ではモーツァルトの《魔笛》を想起した。最も感銘を受けたのは「冬」の掉尾だ。

シモン(バス)は過ぎ去った季節をこう歌う、「君の短い春はもう咲き終えた。/君の夏の活力はもう使い果たした。/もはや君の秋も枯れて老人の歳を迎えた。/もはや青ざめた冬が近づき、/口の開いた墓を君に示している…」(三ヶ尻正訳 プログラム)。だが、シモンは喪失を嘆きつつも、残った「美徳」に言及する。「喜びの日々は」「あの喜ばしい夜はどこへ?」「それらは今どこへ行ったのか?」「それらはみな夢のごとく消えてしまった。/しかし美徳だけは残った」(同上)。ここから新たな世界への視界が開け、「大いなる朝」の光を、「永遠の春」を待ち望む希望が歌われて幕となる。バッハのカンタータが頭に浮かんだ。

バッハといえば、BCJでお馴染みの櫻田亮の晴朗なテノールに魅了された。レチタティーヴォでは、受難曲のエヴァンゲリストさながらの端正な歌唱。安井陽子のソプラノも悪くないが、フレーズ間等のトランジションで音程が少し不安定になる点が惜しい。妻屋秀和(バス)は、近年、新国立劇場の常連としてゲスト歌手と遜色のない歌唱を聞かせている。ただ、ハイドンのような初期古典派の音楽では、より混じりっけのないシンプルな歌唱を求めたい。

ソフィ・イェアンニンの指揮は明快で、音楽の輪郭というのか、各声部をくっきりと聞かせる。特に合唱のフーガなどはとても気持ちが好かった。さすがは合唱のスペシャリスト。【栗友会合唱団は一人ひとりがとても個性的に見えるが、その個性を殺さぬまま喜びに満ちた歌唱を聞かせる点が気に入っている(2008年に旧東京音楽学校奏楽堂で聴いた「再現演奏会1941-1945——日本音楽文化協会の時代」は忘れがたい。そこでコーロ・カロス[栗友会所属合唱団]は戦時の人々をあれこれ演じながら当時の合唱曲や軍歌などを生き生きと歌った)。イェアンニンの指揮も彼/彼女らのよさを最大限に生かしていた。】

総じて素晴らしい演奏だったが、観客席に問題が。終結の沈黙はすぐに破られた。後方からブラボーがひとり飛んだが、拍手はまばら。クオリティの高いパフォーマンスにこんな乏しい反応はないだろう。これではせっかくの音楽も後味が悪い。指揮者はもちろん表情には出さないが、明らかに失望していた。〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉(ルビー)の客層は、殊のほか高齢者が多い。彼/彼女らはあまり手を叩かない(もちろんしっかり反応する人もいるが少数派)。この年層をいまから啓蒙するのはちょっと無理かも知れない。そうだとすれば、アフタヌーンコンサートでは以前のように定番を中心に据え、今回のような意欲的演目はトリフォニーシリーズで取り上げたらどうか。その方がやる側も聴く側もハッピーだと思う。たしかに後者のシリーズも高齢化が進んでいるが、アフタヌーンほどではない(金曜日のソワレはまだ現役の仕事帰りも多い)。

実演芸術の醍醐味のひとつは、不特定多数の聴衆と芸術を共有することにある。だが、客席に未知の芸術(初聴の音楽)を理解しようとする意欲がないと、共有の喜びはさほど得られない。クラシックやオペラ・ファンの高齢化問題は日本に限らないが、このままでは、本当に音楽を愛する人々の足すら遠のいてしまう。

2月のフィールドワーク予定 2019【追加】

今月平田オリザの中短篇を集中して観ることができる。お馴染みの舞台もあれば、初見の作品もある。とても楽しみ。新国立劇場の新作オペラ《紫苑物語》がいよいよ初日を迎える。石川淳の中篇小説から西村朗はどんな音楽を創り出したのか。笈田ヨシの演出を含め、これまた楽しみだ。 

1日(金)19:00 新日本フィル定演 #599 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉ブルックナー交響曲第5番 変ロ長調 WAB 105(ノヴァーク版)指揮:マルク・アルブレヒトすみだトリフォニーホール

12日 (火)18:30 新国立劇場 演劇研修所 第12期生修了公演『るつぼ』作:アーサー・ミラー/翻訳:水谷八也/演出:宮田慶子/美術:長田佳代子/照明:中川隆一/音響:信澤祐介/衣裳:西原梨恵/歌唱指導:伊藤和美/演出助手:小比類巻諒介(11期修了)/舞台監督:川原清德/演劇研修所長:宮田慶子/主催:文化庁新国立劇場/出演:伊澤日菜 川飛舞花 下地萌音 永井茉梨奈 中坂弥樹 林 真菜美 石原嵩志 河合隆汰 福永 遼  福本鴻介 西原やすあき(2期修了)今井 聡 (4期修了)小川碧水(8期修了)坂川慶成(8期修了)髙倉直人(10期修了)高嶋柚衣(11期修了)@新国立小劇場

15日(金)14:00 新日本フィル定演 #20 ルビーアフタヌーン・コンサート・シリーズ〉ハイドン:オラトリオ《四季》Hob. XXI:3/指揮:ソフィ・イェアンニン/ソプラノ:安井陽子/テノール:櫻田 亮/バス:妻屋秀和/コーラス:栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)@すみだトリフォニーホール

15日(金)19:00 劇団銅鑼公演No.52『花火鳴らそか ひらひら振ろか』原案:小川未玲/台本・演出:松本祐子/美術:長田佳代子/照明:伊藤孝/音響:青木タクヘイ/衣裳:宮本宣子/舞台監督:浜辺心大朗/演出助手:北畠愛美/舞台監督助手:村松眞衣/出演:佐藤文雄 長谷川由里 館野元彦 竹内奈緒子 向 暁子 山形敏之 早坂聡美 宮田将英 @あうるすぽっと

16日(土)13:00 青年団 平田オリザ・演劇展 vol. 6『銀河鉄道の夜』A/舞台監督:河村竜也/舞台監督補佐:陳 彦君 鐘築 隼/舞台美術:杉山 至/照明:西本 彩/音響・字幕:櫻内憧海/衣裳:正金 彩/出演:井上みなみ 藤松祥子 山本裕子 鄭 亜美 中村真生 @こまばアゴラ劇場

——————  15:00 平田オリザ・演劇展 vol. 6ヤルタ会談出演:松田弘子 島田曜蔵 緑川史絵 @こまばアゴラ劇場

——————  16:30 平田オリザ・演劇展 vol. 6『コントロールオフィサー』出演:大竹 直 海津 忠 伊藤 毅 島田桃依 尾﨑宇内 小寺悠介 中藤 奨 西村由花 藤瀬典子 宮部純子 @こまばアゴラ劇場

——————  18:30 平田オリザ・演劇展 vol. 6『走りながら眠れ』出演:能島瑞穂 古屋隆太 @こまばアゴラ劇場

17日(日)14:00 新国立劇場オペラ 創作委嘱作品《紫苑物語》新制作/原作:石川 淳/台本:佐々木幹郎/作曲:西村 朗/演出:笈田ヨシ/美術:トム・シェンク/衣裳:リチャード・ハドソン/照明:ルッツ・デッペ/振付:前田清美/監修:長木誠司/指揮:大野和士/出演:髙田智宏(宗頼) 大沼 徹(平太) 清水華澄(うつろ姫) 臼木あい(千草) 村上敏明(藤内) 河野克典(弓麻呂) 小山陽二郎(父)/合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)/管弦楽東京都交響楽団新国立劇場オペラハウス

20日(水)18:00 平田オリザ・演劇展 vol. 6銀河鉄道の夜』B/出演:菊池佳南 折舘早紀 小林亮子 髙橋智子 中村真生 @こまばアゴラ劇場

——————  20:30 平田オリザ・演劇展 vol. 6忠臣蔵・武士編』出演:大塚 洋 大竹 直 海津 忠 秋山建一 島田曜蔵 中藤 奨 吉田 庸 @こまばアゴラ劇場

【24日(日)14:00 新国立劇場オペラ 創作委嘱作品《紫苑物語》新国立劇場オペラハウス】←平太がダブルキャストになるアナウンス前に押さえたため、初日と同じキャスト(もっと早く発表して欲しかった)

28日(木)18:00 平田オリザ・演劇展 vol. 6『隣にいても一人』C/出演:藤谷みき 伊藤 毅 吉田 庸 木引優子 @こまばアゴラ劇場

——————  20:30 平田オリザ・演劇展 vol. 6忠臣蔵・OL編』C/出演:松田弘子 村田牧子 村井まどか 本田けい 申 瑞季 南波 圭 立蔵葉子 @こまばアゴラ劇場

新国立劇場 開場20周年記念特別公演 オペラ《フィデリオ》新制作 2018【断片】

はてなダイアリーが1月28日に更新停止となる。最後まで書き切れていないが、記録として下書き欄から〝救出〟した。

ベートーヴェンの唯一のオペラ《フィデリオ》の初日、三日目、千穐楽を観た(5月20日 14:00,27日 14:00,6月2日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。
大変刺激的な舞台だった。予定欄にも書いたが、初日に演出家めがけてブーイングとブラボーが飛び交ったのは新国立劇場では久し振り。ブーが「待ってました」と気持ちよさそうに聞こえたのは、たぶん気のせいではない。近年この劇場の客層は以前とは違いあまりにストライクゾーンが広いというか、「これでブラボー?」と感じることが少なくなかった。オペラで同一演目をリピートしたのも久し振りだ。以下、だらだらメモを記す。

フィデリオ》全2幕〈ドイツ語上演/字幕付〉
作曲:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
指揮:飯守泰次郎
演出:カタリーナ・ワーグナー
ドラマツルグ:ダニエル・ウェーバー
美 術:マルク・レーラー
衣 裳:トーマス・カイザー
照 明:クリスティアン・ケメトミュラー
舞台監督:村田健輔


ドン・フェルナンド:黒田 博
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
フロレスタン:ステファン*(スティーブン)・グールド
レオノーレ:リカルダ・メルベート
妻屋秀和:ロッコ
マルツェリーネ:石橋栄実
ジャキーノ*(ヤッキーノ):鈴木 准
囚人1:片寄純也
大沼 徹:大沼 徹

合唱:新国立劇場合唱団 (合唱指揮:三澤洋史)
管弦楽:東京交響楽団
【*この劇場は以前から固有名のカタカナ表記がおかしい。アメリカ人歌手のStepen Gould がなぜ「ステファン」とドイツ語読みになるのか。スペイン人のJaquinoが「ジャッキーノ」では他の表記と一貫性が損なわれないか。】

政治犯として夫が投獄された監獄へ男装した妻が乗り込み、看守長のもとで働きながら機を見て夫を救出する。本来はそういう話。だが、今回はそうはならない。演出のカタリーナ・ワーグナー曰く「今を生きる我々は歴史上の出来事を無視することはできない」から、らしい(「朝日新聞」2018. 5.14)。
セットはコンクリートの打ちっぱなしで造られたドールハウスみたいに、空間がいくつか分けられている。上階の三つの空間は、シモテがレオノーレの、カミテが看守長ロッコの部屋で、広い中央には段差がついている。ロッコの部屋の真上はさらに別の空間が穿たれ、刑務所長ドン・ピツァロの部屋だ。階下は地下牢で、シモテ奥には立方体の石が大小置かれ、中央ややカミテ寄りの出口には黄色の鉄格子が見える。当然ここは薄暗く、蝋燭が数本点っているのみ。途中で舞台が上昇すると、一般受刑者たちを収監した一段下の地下牢がせり上がる。このように、舞台では当国営刑務所のヒエラルヒーが視覚化され、それぞれの空間から個々の世界観や密かな想いが客席に示されるが、人物同士には見えないという趣向。
第1幕
開幕すると、地下牢のシモテ奥で石の台に突っ伏した政治犯のフロレスタン(スティーヴン・グールド)と、カミテ最上階に後ろ向きで立つ刑務所長のピツァロ(ミヒャエル・クプファー=ラデツキー)にのみ光が当たっている。序曲の後半(ホルンが奏するあたり)から、ロッコ(妻屋秀和)とヤッキーノ(鈴木准)が中央の空間に芝生の絨毯を敷き、ピンクの薔薇を次々に植えていく。するとロッコの娘マルツェリーネの遊び部屋に早変わりする。奥には大きなピンクの衣装ダンスがあり、のちにロッコがこの扉を開けると娘のマルツェリーネ(石橋栄実)が飛び出してくる……。マルツェリーネの幼い幻想を父ロッコやヤッキーノらが支えているということか。
マルツェリーネのアリア(第2番「私があなたと一緒になれたら」)で石橋はリリカルだが声量豊かな歌唱を聴かせた。素晴らしい。さらに、箱から男女の人形を出して遊ぶ演出が効果的で、十代の少女に見えた(リブレットの設定は16歳)。……4人がそれぞれの想いを歌うカノンの4重唱(第3番「不思議でならないわ」あ)は本作で一番好きな曲。飯守のテンポはかなり遅めだが、それぞれ別の空間で歌いながらも、バランスは悪くなかった。石橋の豊かな声の叙情とメルベートの硬質さが絶妙に混じり合い、そこへ、妻屋のよく通る「善良な」歌声と鈴木の不貞腐れた若い「ぼやき」が絡んでいき、美しいハーモニーを作り出す。グッときた。音楽の喜びが横溢した。
……囚われのフロレスタンは、時おり階上のマルチェリーナが下に投影される影を見て、壁に天使の絵を描き出す(後の第2幕冒頭で彼はこう歌う、「一人の天使がバラの香気の中に/私を慰めようと側に立っているのが見える。天使、レオノーレ、わが妻……」)。プラトンの洞窟の比喩みたいだ。シモテ上の部屋(つまり幽閉されたフィデリオの真上)でレオノーレ(リカルダ・メルベート)は男の服に着替え、壁の隠し戸棚を開けて夫のポートレートを取り出し、抱き締める。右上のロッコの空間では、投獄された人々の服から金目のものを取り出す(?)作業をヤッキーノと続ける(第4番「人間、金を持っていなければ」)。窓には外界の青空を描いた絵がはめ込まれている(疎外感の裏返し)。
刑務所長ピツァロの行進曲(第6番)が始まるとマルチェリーナのための幻想空間は急いで元に戻されていく。ロッコ、ヤッキーノ、さらにフィデリオ(レオノーレ)も手伝う。ピツァロに査察の手紙を渡すロッコ。レオノーレのレチタティーヴォとアリア(第9番「若者よ! どこへ急ぐのだ?」「希望よ来れ、疲れ果てた人々の最後の星を」)では、ホルンに導かれるアリアから、男の服を脱いで柄物のワンピースを着る。メルベートが「希望」を求めた入魂の歌唱を聴かせた。ホルンもよい。
囚人たちに外気を吸わせるシーンでは(第10番)舞台が上昇し、フロレスタンの居る階のさらに下の地下牢が姿を表す。ただし、囚人たちのコーラスは聞こえても、後半で看守たちが照らすカンテラ以外に光はない。つまり闇のまま。
ロッコの「勝手な」措置に怒るピツァロ。怯えるマルチェリーナ。その影を見た地下牢のフロレスタンは、壁に描いた天使の絵を次々に消していく。シモテの壁の絵を除いて。エンディングは、地下牢で絵を消していくフロレスタンと、カミテのロッコの部屋で十字架(ロッコとレオノーレがフィデリオの墓用に作った)を持つピツァロにだけ淡い光が当たり、あとはすべて闇の中で歌われる。囚人のコーラスも。次第に舞台は下がっていき、最下層の地下牢が見えなくなって幕。秀逸な幕切れ。
第2幕
重々しい序奏の後、フロレスタンのレチタチーヴォとアリア(第11番「ああ! なんと暗い所だろう!」「人の世の春の日に」)。「……あえて真実を述べた代償がこの鎖。私は喜んであらゆる苦痛に耐え、恥辱のうちに人生を終えよう。こころには甘美な慰めがあるから、義務を果たしたという慰めが」。「穏やかに囁く外気を感じないだろうか? 私の墓は明るく照らされていないだろうか? 私には見える、一人の天使がバラの香気に包まれ、私を慰めようと側に立っているのが。天使、レオノーレ、わが妻、まったく同様に、その者が私を天の王国にある自由へと導いてくれる」。フロレスタン役のグールドは、尖ったもので腕を自傷する。タナトス的な死への意思? さらに、彼はタイルを剥がし、下の土を掘り出す作業を続ける。墓穴を掘っているらしい。これらはすべて、壁に描いた天使=レオノーレ=わが妻に導かれて「天の王国にある自由」を求めての行為だと、2回目以降にそう思った。
ロッコフィデリオの鬘に気づく。壁の絵を見るロッコ。ピツァロに刺されるフロレスタン。ファンファーレ。
夫婦の二重唱が終わり、階段を登って出ようとすると、男の笑い声。手下らを従えてピツァロが姿を現し、二人を遮る。このとき序曲第3番が始まる。ピツァロはレオノーレの服と同じ柄のスカーフで彼女の首を絞め、無理やりキスをしながらナイフで脇腹を刺す。勝利の音楽のなか、ピツァロはブロックをひとつずつ積みあげ、出口を塞いでいく。地下牢が闇に包まれ、絃楽器群のハイテンポとともにステージが上がり、下の地下牢が見えてくる。・・・
・・・パウル・ツェラン「死のフーガ」(1945)の一節が頭に浮かぶ、「ぼくらは宙に墓を掘るそこなら寝るのにせまくない」。ツェランユダヤ系ドイツ人で両親は強制収容所で死に、みずからも収容所体験を有する。・・・

iaku 演劇作品集2/死者との対話&二重唱から六重唱へ 2018【断片】

はてなダイアリーの停止を受け、やむなく下書き欄のメモをそのままアップすることにした。『梨の礫の梨』については完成していたが、『粛々と運針』は断片のみ。

2018年5月26日(土)15:00(約60分)こまばアゴラ劇場
『梨の礫の梨』(2012)
演出:横山拓也
出演:宮川サキ(sunday)、藤本陽子(DACTparty)

舞台には立ち飲み用のバーカウンターがあり、スコッチウィスキー・マッカラン10年のボトルとその両脇にロックグラスが1個ずつ置かれている。中年女性がカウンターの向こうに立ち、客席に向かって喋りはじめる。どうやらこちら(客席)側にバーテンダーが居る見立てらしい。話は、満員の電車内で目の前に座った客が荷物を抱えず隣の席に置いていた、だから座れなかった、ムカつくので他の席が空いてもずっとその真ん前に立っていた等々。他にもいろんな小話。あまり面白くない。やがて、若い女性が奥から登場。中年女性のカミテに立ち、二人でマッカランのロックを飲みながら、話は続く。当初、若い方は中年女性の娘かと思ったが、それにしては言葉遣いが不自然だ。……戻れるなら35歳に戻りたいという中年女性。その頃そろばん塾をやっていた男性と付き合っていた。が、死んだと。……大阪くさい(?)ネタ話を交えながら対話は続く。7歳の娘を残して自殺した母。それが「あんたの時」と中年女性はいう。何のこと? どうやら、その「母」が中年女性の隣に居る若い女性らしい。つまり、「残された娘」が、ホテルの清掃業をしているこの中年女性。彼女は、いま、かつての母と同じことをしようとしている。27歳で自殺したはずの母が、いまそれを止めようとするセリフでそうと分かる。「アカンで」。この母は同じ7歳のとき彼女のハイカラな母(つまり中年女性の祖母)が連れて行ってくれた映画のセリフで勇気づけようとする。自分には価値がないと落ち込む主人公の女の子を綱渡り芸人が励ます言葉で。曰く「世の中に価値のないものなんてない。そこらの石ころにも何らかの価値がある」と(フェリーニの『道』か)。一方、娘は7歳の自分を置き去りにして逝った母にそんなこと言われたくないと、感情を爆発させる。娘に謝り、その名を呼ぶ母「こいし(礫)」。泣き崩れる娘。ロックアイスを投げつけ「もう行って」と追い払うと、姿を消す母。「お母さん」……。勘定を払うときマッカランを二本入れるようバーテンに頼む女。
中年女性と若い女性の関係性が不明のまま対話は進む。やがて、希望のない日々を送るホテル清掃業の中年女が、マッカランのロックで酔い、自らの生を振り返りながら、自分を残して自殺した母と内的な対話をした挙句、母と同じことをするのは何とか思いとどまる。徐々にそういう話なのかと分かってくる。だが、母とのやり取りが女性の頭のなかでの出来事だとすると、自分が見てもいない映画のセリフはどうして分かるのか等々……疑問が湧かないでもない。が、こうした問いは無粋か。この作品でも、登場人物についての決定的な情報が当初は隠され、それが、後半で知らされる。関係性やセリフの意味合いが宙吊りにされたまま観客はあれこれと想像を巡らせることになる。なんだろう、どういう関係だろう等々と、役者が発するセリフに傾注させる。死者との対話はいいと思う。先月この劇場で見たパスカル・ランベールの『ゴースト』もそうだった。日本演劇には能の伝統が連綿と続いている。

5月26日(土)19:00(約90分)
『粛々と運針』(2017)
演出:横山拓也
出演:尾方宣久(MONO)、近藤フク(ペンギンプルペイルパイルズ)、市原文太郎、伊藤えりこ(Aripe)、佐藤幸子(mizhen)、橋爪未萠里(劇団赤鬼)

舞台には高さの異なるスツールが6脚。カミテとシモテの高いスツールにそれぞれ女性が互いに向き合うかたちで座る。彼女らは一方は白の、他方は赤の割烹着のような服を着ており、開始の少し前から長い晒しのような布に運針を走らせる。やがて、四人の男女がスツールに座り、芝居が始まる。どうやら運針の二人は狂言回しもしくはコロスらしい。まずは関西弁の男女(夫婦)の対話。次に東京弁の兄弟の対話。まったく異なるふた組の対話が、途中から響き合い始める。
・・・膵臓癌で入院している70歳の母に恋人? 自動車事故で追突されて首に固定装具を付けた夫と保険金の話、猫の話等々。桜の木が切られる話。桜の木が咲かせる花。川に落ちた花を筏で拾う。生と死。時間。誕生と終焉。二つの二重唱が四重唱に、さらに六重唱に。子供を産みたくないという妻に夫が寄り添う。無条件で? 子宮筋腫。隠し玉。あざとい? 時間を紡ぐ・・・

『あたしら葉桜』/『葉桜』と『人の気も知らないで』(「 iaku 演劇作品集1」)の感想メモはこちら

ダイアリーからブログへ引っ越した

はてなダイアリーは1月28日に記事の更新を停止し、2月28日には全機能を停止するとの知らせが届いた。今日いささか慌ててはてなブログへの移行を実施。なんとか引越が完了した。ただし、下書欄に書き残した膨大なメモは移行できない。さて、どうするか。頭が痛い。

1月のフィールドワーク予定 2019/18年を振り返る

今年もあとわずかで終わる。その前に大急ぎで一年を振り返ろう。まず想起するのは新国立のオペラ《フィデリオ》(5月)だ。ドールハウスのような舞台セットが上下するなか、「レオノーレ」序曲第3番を合図にあっと驚く展開へ突入する。予定調和を排したカタリーナ・ワーグナーの演出は衝撃的だが、ベートーヴェンの音楽と不調和をきたすどころか、より新鮮に響いたから二重の驚きだ。指揮はこれを最後に芸術監督を退いた飯守泰次郎蒼井優主演の『アンチゴーヌ』(1月)も忘れがたいがこれはブログに書いた。関西の優れた劇作家 横山拓也(iaku)作品を観ることができたのはアゴラ劇場(支援会員制度)のお陰。特に〝二重唱から六重唱へ〟と展開する『粛々と運針』(5月)はかなりの意欲作だ。新作『逢いにいくの、雨だけど』(12月)では同じ手法でより禁欲的にテーマ性を追求した。バレエでは特にこれといった公演は浮かばない。ただ、立ちはだかる〝壁〟を一つひとつ乗り越えて、毎回、新たな境地を舞台で見せた米沢唯には、生きる力を貰った。さて、来年はどんな年になるのか。

12日(土)14:00 新国立劇場バレエ「ニューイヤー・バレエ」『レ・シルフィード音楽:フレデリック・ショパン、振付:ミハイル・フォーキン、出演:小野絢子 井澤 駿/火の鳥音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー、振付:中村恩恵、出演:木下嘉人(火の鳥) 米沢 唯(娘) 福岡雄大(リーダー) 井澤 駿(王子)/ペトルーシュカ音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー、台本:イーゴリ・ストラヴィンスキー+アレクサンドル・ブノワ、振付:ミハイル・フォーキン、出演:奥村康祐(ペトルーシュカ) 池田理沙子(バレリーナ) 中家正博(ムーア人)/指揮:マーティン・イェーツ/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

13日(日)14:00 新国立劇場バレエ「ニューイヤー・バレエ」『レ・シルフィード音楽:フレデリック・ショパン、振付:ミハイル・フォーキン、出演:木村優里 渡邊峻郁/火の鳥音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー、振付:中村恩恵、出演:木下嘉人(火の鳥) 五月女 遥(娘) 福岡雄大(リーダー) 井澤 駿(王子)/ペトルーシュカ音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー、台本:イーゴリ・ストラヴィンスキー+アレクサンドル・ブノワ、振付:ミハイル・フォーキン、出演:奥村康祐(ペトルーシュカ) 池田理沙子(バレリーナ) 中家正博(ムーア人)/指揮:マーティン・イェーツ/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

19日(土)14:00 新日本フィル定演 #19 ルビー<アフタヌーン・コンサート・シリーズ> ヴェルディ:歌劇『シチリア島の夕べの祈りバレエ音楽「四季」より「冬」ケルビーニ:歌劇『メデア』序曲ブラームスヴィオラソナタ 第1番 ヘ短調op. 120-1(管弦楽編曲:L. ベリオ)* ロッシーニ:歌劇『泥棒かささぎ』序曲ポンキエッリ:歌劇『ラ・ジョコンダ』バレエ音楽「時の踊り」より「昼の時の踊り」ヴェルディ:歌劇『アイーダ』より「小さなムーア人奴隷の踊り」「舞踏音楽」プッチーニ:歌劇『マノン・レスコー』間奏曲ヴェルディ:歌劇『オテロ』より「舞踏音楽」ヴェルディ:歌劇『シチリア島の夕べの祈りバレエ音楽「四季」より「春」/*ヴィオラ:篠崎友美/指揮:上岡敏之すみだトリフォニーホール

24日(木)19:00 BCJ ベートーヴェン交響曲第9番 ニ短調 op.125《合唱付き》指揮:鈴木 雅明/ソプラノ:アン=ヘレン・モーエン/アルト:マリアンネ・ベアーテ・キーラント/テノール:アラン・クレイトン/バス:ニール・デイヴィス/合唱&管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル

27日(日)14:00 新国立劇場オペラ リヒャルト・ワーグナー作曲《タンホイザー》全3幕〈ドイツ語上演/字幕付〉指揮:アッシャー・フィッシュ/演出:ハンス=ペーター・レーマン/美術・衣裳:オラフ・ツォンベック/照明:立田雄士/振付:メメット・バルカン/領主ヘルマン:妻屋秀和/タンホイザー:トルステン・ケール/ヴォルフラム:ローマン・トレーケル/ヴァルター:鈴木 准/ビーテロルフ:萩原 潤/ハインリヒ:与儀 巧/ラインマル:大塚博章/エリーザベト:リエネ・キンチャ/ヴェーヌス:アレクサンドラ・ペーターザマー/牧童:吉原圭子/合唱:新国立劇場合唱団/バレエ:新国立劇場バレエ団/管弦楽:東京交響楽団新国立劇場オペラハウス

新国立劇場 演劇『スカイライト』本公演 2018/プレビューとの比較

『スカイライト』本公演の中日を観た(12月15日 18:00/新国立小劇場)。
やはりプレビュー初日とはまったく違う。2回のプレビューと三日間の稽古を経て10回余りの上演を重ねてきた舞台。俳優たちは役を生きつつ、さらに成長してきたのだろう(あの膨大な科白を毎回発するだけでも信じがたいが)。無意味な時間は皆無だった。
エドワード(葉山奨之)の吃音は演技だと分かると意味も呑み込みやすくなる。葉山は吃音が実に巧い(妙な言い方だが)。ただ、トーンの設定が総じて高いせいか、気持ちの強弱や感情の動きが目立ちにくいきらいも。キラ(蒼井優)とトム(浅野雅博)のやり取りはプレビューよりも対話的。驚きの再会から少しずつ打ち解けていくが、そのプロセスは丁寧に作られている。二人のぶつかり合いも振幅がいっそう激しい。トムの発話で客席から再三笑いが出るが、その裏に妻への罪悪感が隠されていた。それを見抜くキラの言葉と身体を介し、客席もトムの内側を理解する。プレビューではなかった体験だ。結果、本公演では、何よりキラとトムの互いへの愛がとても強く感じられた。
息子が最初に来訪した時、床の一部を踏むとギイギイ鳴った。トム(父)もそこを歩くとギイギイ。キラの慎ましい生活ぶりをプレビューより面白おかしく目立たせた。例のチーズも、プレビューよりかなり見すぼらしい! ラストの場で、エドワードの吃音を軽くしたのもよかったと思う。彼の吃音がトムとの価値観の違いを埋める徴だとしても(前ブログ参照)、ここでプレビュー同様吃音がひどくなると、救いとしてのエドの来訪が、かえって見えにくくなっただろう。
心に残ったキラの台詞。

教師として、唯一よかったって思えることが・・・これで全てに納得がいくって思えることがただ一つあって、それは本当に素晴らしい生徒を一人見つけることなの。

まったく!
ところで、台本にエドが吃音で喋る等の指示は見いだせない(『悲劇喜劇』2019年1月号)。ナショナル・シアターの舞台は2015年にライブ上演されたようだが、吃音の淵源はどうもそこらしい(未見のため不確実)。もしそうなら、演出家はそれに倣ったのか・・・(もしそうなら少し残念な気もする)。
蒼井優は予想通り演劇賞(紀伊國屋演劇賞個人賞)を受賞した。『アンチゴーヌ』だけでも受賞に値するが、本作でダメを押したに違いない。