新日本フィル定演 #20〈ルビー〉ハイドン:オラトリオ《四季》/聴衆の高齢化について【追記】

新日本フィルの定演 ルビー〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉でハイドンのオラトリオ《四季》(1801)を聴いた(2月15日 14:00/すみだトリフォニーホール

指揮:ソフィ・イェアンニン

ソプラノ:安井陽子

テノール:櫻田 亮

バス:妻屋秀和

合唱:栗友会合唱団

合唱指揮:栗山文昭

コンサートマスター:崔(チェ)文洙

台本は《天地創造》同様、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン。前者の原作はイギリス詩人ミルトンの『失楽園』だが、本作はスコットランド詩人ジェイムズ・トムソンの同名叙事詩(1726-30)に基づく。

音楽は「春」「夏」「秋」「冬」を、オケ、合唱、三人のソロイスト——シモン(バス)、ハンネ(ソプラノ)、ルーカス(テノール)が巡っていく。シモンは老いた農夫、ハンネはその娘、ルーカスはその恋人らしいが、老年と男女の若者を代表してもいる。聞きどころは少なくない。自然を描写するフレーズなどは後のベートーヴェンの「田園」みたいだし、「夏」を締め括る嵐の後の三重唱と合唱ではモーツァルトの《魔笛》を想起した。最も感銘を受けたのは「冬」の掉尾だ。

シモン(バス)は過ぎ去った季節をこう歌う、「君の短い春はもう咲き終えた。/君の夏の活力はもう使い果たした。/もはや君の秋も枯れて老人の歳を迎えた。/もはや青ざめた冬が近づき、/口の開いた墓を君に示している…」(三ヶ尻正訳 プログラム)。だが、シモンは喪失を嘆きつつも、残った「美徳」に言及する。「喜びの日々は」「あの喜ばしい夜はどこへ?」「それらは今どこへ行ったのか?」「それらはみな夢のごとく消えてしまった。/しかし美徳だけは残った」(同上)。ここから新たな世界への視界が開け、「大いなる朝」の光を、「永遠の春」を待ち望む希望が歌われて幕となる。バッハのカンタータが頭に浮かんだ。

バッハといえば、BCJでお馴染みの櫻田亮の晴朗なテノールに魅了された。レチタティーヴォでは、受難曲のエヴァンゲリストさながらの端正な歌唱。安井陽子のソプラノも悪くないが、フレーズ間等のトランジションで音程が少し不安定になる点が惜しい。妻屋秀和(バス)は、近年、新国立劇場の常連としてゲスト歌手と遜色のない歌唱を聞かせている。ただ、ハイドンのような初期古典派の音楽では、より混じりっけのないシンプルな歌唱を求めたい。

ソフィ・イェアンニンの指揮は明快で、音楽の輪郭というのか、各声部をくっきりと聞かせる。特に合唱のフーガなどはとても気持ちが好かった。さすがは合唱のスペシャリスト。【栗友会合唱団は一人ひとりがとても個性的に見えるが、その個性を殺さぬまま喜びに満ちた歌唱を聞かせる点が気に入っている(2008年に旧東京音楽学校奏楽堂で聴いた「再現演奏会1941-1945——日本音楽文化協会の時代」は忘れがたい。そこでコーロ・カロス[栗友会所属合唱団]は戦時の人々をあれこれ演じながら当時の合唱曲や軍歌などを生き生きと歌った)。イェアンニンの指揮も彼/彼女らのよさを最大限に生かしていた。】

総じて素晴らしい演奏だったが、観客席に問題が。終結の沈黙はすぐに破られた。後方からブラボーがひとり飛んだが、拍手はまばら。クオリティの高いパフォーマンスにこんな乏しい反応はないだろう。これではせっかくの音楽も後味が悪い。指揮者はもちろん表情には出さないが、明らかに失望していた。〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉(ルビー)の客層は、殊のほか高齢者が多い。彼/彼女らはあまり手を叩かない(もちろんしっかり反応する人もいるが少数派)。この年層をいまから啓蒙するのはちょっと無理かも知れない。そうだとすれば、アフタヌーンコンサートでは以前のように定番を中心に据え、今回のような意欲的演目はトリフォニーシリーズで取り上げたらどうか。その方がやる側も聴く側もハッピーだと思う。たしかに後者のシリーズも高齢化が進んでいるが、アフタヌーンほどではない(金曜日のソワレはまだ現役の仕事帰りも多い)。

実演芸術の醍醐味のひとつは、不特定多数の聴衆と芸術を共有することにある。だが、客席に未知の芸術(初聴の音楽)を理解しようとする意欲がないと、共有の喜びはさほど得られない。クラシックやオペラ・ファンの高齢化問題は日本に限らないが、このままでは、本当に音楽を愛する人々の足すら遠のいてしまう。