新国立劇場バレエ団『コッペリア』2023

コッペリア』の初日、2日目と楽日を観た(2月23日  木曜・祝 14:00,24日金曜 19:00,26日 日曜 18:00/新国立劇場オペラハウス)。

前回の2017年のメモはこちら。以下は今回の感想メモ。

振付:ローラン・プティ/芸術アドヴァイザー+ステージング:ルイジ・ボニーノ/音楽:レオ・ドリーブ/美術・衣裳:エツィオ・フリジェーリオ/照明:ジャン=ミッシェル・デジレ/指揮:マルク・ルホワ=カラタユード/管弦楽:東京交響楽団

[主演](23日)スワニルダ:小野絢子/フランツ:渡邊峻郁(事情により降板)→福岡雄大/(24日)スワニルダ:米沢 唯/フランツ:井澤 駿/(26日)スワニルダ:米沢 唯/フランツ:速水渉悟/(23/24/26日)コッペリウス:山本隆之

第2幕のオーボエで始まるアンダンテ。初日はパ・ド・ドゥ的感動を味わった。これまでもそう。だが今回、米沢と山本の立体的なやり取りから、この場面の面白さに気づかされた。表面上は人形コッペリア(の振りをするスワニルダ)とコッペリウスのpddに見えるが、実はそうではない。スワニルダは、一方で、コッペリウスに自分が人形だと信じさせるよう装いつつ、気持ちはテーブルに突っ伏したフランツに向けられ、早く起きてよと促している。この二重性は《フィガロの結婚》第4幕のスザンナのアリア「早くおいで、すばらしい喜びよ」(27番)を想起させた。

これは、伯爵夫人の衣裳を纏うスザンナが伯爵との相引きを装いつつ愛の歌をうたい、陰に隠れたフィガロがそれを聴いて嫉妬する場面だ。スザンナは婚約者が隠れているのを知りながら歌う(「不良が窺っているわ。私たちも楽しんでやりましょう。彼に、私を疑った報いを与えてやりましょう」)。つまり、スザンナが心情を込めてうたう愛の歌は、伯爵に向けられていると思わせながら、実は、フィガロに向けられていたのである。「…来てちょうだい、いとしい人、この隠された木々のあいだに、私は貴方の額にバラの花冠を載せたいのよ」(戸口幸策訳)。このアリアは本作で最も美しいものの一つであり、モーツァルトはこの複雑な場面に素晴らしい音楽を与えている。

コッペリア(スワニルダ)とコッペリウスのやり取りも、スザンナのアリアと同じ ヘ長調 アンダンテ 6/8拍子で、ドリーブは厳粛な音楽を与えていた。おそらくこれは、モノに過ぎない人形にコッペリウスの魔法からフランツの生命が吹き込められ、魂が宿る奇跡を表現したのだろう。もちろんそれはコッペリウスの幻想に過ぎない。にもかかわらず、コッペリウスの内面に寄り添う曲の厳かな美しさが、観る者に幻想の共有を促し、二人がパ・ド・ドゥを踊っているかのような印象を抱かせる。小野は、いま思えば、この幻想が壊れないよう、フランツよりもコッペリウスへの意識を優先していたのかもしれない。二人のパ・ド・ドゥ感が強かったのはそのためだろう。だが、米沢スワニルダは、愛するフランツへの〝気〟をかなり強く放出し、その分、コッペリウスの自己陶酔(独りよがり)が際立っていた。

米沢と山本の立体的なやり取りを見て思う。本作の主題は、他者性の問題だと(特に男にとって)。そもそも原作の『砂男』がそうだった。フランツもコッペリアに恋する。自動人形とは知らずに。自分に逆らわず思い通りになる相手は、理想的に見える。だが、それは他者性を欠いた、自分自身の影にすぎない(ナルシシズム)。現実の他者はこちらの思い通りには動かない、自由な人間だ。思い通りになる存在がつまらないのは、人形と踊るコッペリウスが合間に見せる落胆失望を見れば明らかだ。生身の活きいきした様は、2幕1場の後半のスワニルダが見事に体現している。

米沢スワニルダは以前より可愛らしさが増した印象。井澤の生き生きとしたフランツ造形は評価できる。

速水の踊りは誰よりも巧く、きれいで大きく力強い。だが、それは出発点にすぎない。そこからフランツとして何を表現するのか(それが「踊りの巧さ」でないとすれば)。今後は手本となる米沢唯と組む回数を増やし、舞台で掴んでいくことを願う。

小野はスワニルダに合っている。福岡は、山本と踊ると本当に嬉しそう。第1幕で山本コッペリウスの魔法に福岡フランツは誰よりも遠くまで吹っ飛んだ。こうでなくては。

衛兵の福田圭吾は2007年の初演以来キレキレで、彼が不在のチャルダーシュは別物になる。木下嘉人のスワニルダへの求愛は見事。皆あれくらいやらねば。

中家正博のコッペリウスをぜひ見たい。

指揮者マルク・ルロワ=カラタユードは実に音楽的(バレエ指揮では必ずしも当たり前ではない)。たとえばメロディを繰り返すとき必ず強弱等のニュアンスを変化させていた。