神奈川芸術劇場プロデュース『未練の幽霊と怪物―「珊瑚」「円山町」―』2026

『未練の幽霊と怪物―「珊瑚」「円山町」―』の3日目と11日目を観た(15日 日曜 14:00,26日 木曜 19:00/KAAT 大スタジオ)。

3日目(15日)はタイトル/プログラムの記載順で『珊瑚』から上演かと思ったら『円山町』。プログラムは『珊瑚』の部分しか読んでおらず焦った。けっきょく再見することに。

以下、各日の走り書きを基に、重複を恐れず感想を記す。

作・演出:岡田利規/音楽監督・演奏:内橋和久/謡手:里アンナ/美術:中山英之/照明:横原由祐/音響:佐藤日出夫/衣裳:Tutia Schaad/ヘアメイク:谷口ユリエ/演出助手:中村未希/舞台監督:横沢紅太郎

主催・企画制作:KAAT 神奈川芸術劇場/助成:文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)|独立行政法人日本芸術文化振興会

『珊瑚』ワキ(物書きの端くれ):石倉来輝/ワキツレ(比嘉さん):清島千楓/シテ(懐かしむ女):アオイヤマダ/アイ(近所のひと):片桐はいり/後シテ(ヒメサンゴの霊):アオイヤマダ

『円山町』ワキ(新社会人になる女):七瀬恋彩/シテ(辻に立つ女):小栗基裕(s**t kingz)/アイ(花を手向けに来た女):片桐はいり/後シテ(道玄坂地蔵尊):小栗基裕

舞台(美術 中山英之*1)には薄グレーの床シートが敷かれ、左端は橋掛かりのようにシモテ奥へ延び、その手前に三つの黄色いコーンが、松の代わりか、等間隔で置かれている。上方に吊された〝屋根〟の平面が舞台を見おろし、鈍い光を放つ。床シートの正面奥にダクソフォン奏者の内橋和久(地謡)が、カミテ端の、床シートの外側に里アンナ(謡手)が陣取る。前回の『座波/敦賀』(2021年)の時とほぼ同じに見えた。

15日(日)15:00

『珊瑚』から始まると思いきや、ワキがいきなり「渋谷」を口にした…『円山町』なのか。プログラムは『珊瑚』の部分しか読んでなかった…

ワキの若い女性(七瀬)はなにやら「ザワザワ」して、いつのまにか渋谷の地蔵尊前へ来たと。

シテ(小栗=男性ダンサー)がいかにものカツラを被り白いホットパンツの若作りな出で立ちで登場。ワキの女性に(立ちんぼの)縄張りを荒らすなと言う。新卒の若い女と、盛りをとっくに過ぎたおぞましさを隠しようもない女のコントラスト。…

…アイ(片桐)が花を手向けに登場。あの死んだ女性は有名企業に総合職で採用された、いかに選ばれた女だったか、総合職は死語? …。あの〝事件〟の状況背景はけっこう複雑だ(1997年3月19日の「東京電力女性社員殺害事件」)。何に対する「未練」? 怨み? 何に対する? 男社会?

後シテは殺された女性じゃなく、地蔵尊だったのか。小栗が被っていた青いイスラム帽みたいなのは坊主頭(僧侶)のイメージ? 地蔵尊が後シテだと、何を訴えているのか、理解しづらい…。プログラム読んで、もう一度見なくちゃ。

 

休憩後の後半は『珊瑚』… 両腕を大きく広げて語るワキ(物書きの端くれ/石倉)の能天気さ。ワキツレ(比嘉さん/清島)のガイド兼運転手は、なにノーテンキなこといってんだこのバーカ、と口には出さず腹でケイベツする。後方の内橋が思わずクスっ…。ユーモアと批評性の見事な一体化。

シテ(懐かしむ女/アオイ)の、他の場所に移植させられたヒメサンゴのホームを懐かしむ無垢な哀しさ。…

アイ(近所のひと/片桐)が、ワキの問いかけに問い返す。この聞き返しも、なに聞いてんだこの…的な…

後シテ(ヒメサンゴの霊/アオイ)のあり方と語りと動きから、生命のエロス、神秘、ハカナさ、華やかさが感じられた。…

あらためて内橋の音楽(ダクソフォン)があって初めて成立する舞台だと思った。謡手は特に高音が舞台から離陸しそうでしなかったような。声が音楽と溶け合いすぎるのか、詞章が聴き取りにくかった。

 

26日(木)19:00 

謡手(里)が三線を持って登場。今日は『珊瑚』からだと分かる。

冒頭「イヨー」の掛け声のような音楽(内橋)。ワキ(石倉)とワキツレ(清島)が一緒に登場。両腕を翼のように大きく広げ、飛行機でここ(沖縄)までやって来たと語るワキ(物書きの端くれ男)のヘラヘラ感が前回より甚だしい。一方、ワキツレ(比嘉さん)の「こいつアホか」感は前回よりやや薄め(男を見切るタイミングのせいか)。ガイド兼運転手である比嘉さんの後ろから舞台を(「運転手はキミだ車掌はボクだ」の電車ごっこみたいに)移動しつつ、男は、美しい風景にむごい現実(大浦湾の埋め立て工事等)が食い込む…云々。ワサワサ。ゾワゾワ。

シテ(懐かしむ女)登場。ホワホワの音楽。若い女(アオイ)。テニスウエアを思わせる白い半袖の短めワンピースに素足。霊。かつて海の中で生きていたヒメサンゴ、移植のため住処から引き剥がされ… シテの動きを無表情で見つめるワキとワキツレ。途中でアイ(片桐)が登場し、ハシガカリの入口あたりでシテが去るのを待つ。

内橋がエレキギターを肩に掛けて立ち上がり、アイ(近所のひと)と例の〝セッション〟を開始。片桐はいりは調子がいい。阿波踊りっぽく両手をひっきりなしに動かし…、重心を低くし…、ひとしきり語り、去る。

後シテ(ヒメサンゴの霊)登場。絶妙な電子音的律動。クラゲやエイを思わせるプリーツの入ったスカイブルーのコスチュームに素足。官能的。生命のエロスや神秘が感じられる。はかなさも。…カミテ奥で腰を落として、雌雄同体の卵を放出し云々…。後半、音楽が高まり、里の三線入りで島唄っぽい小節が入るシークエンスも。やがてアオイは時計と反対回りにくるくる激走し、今度は時計回りに回り、めくるめくような…。ラストの恍惚と微かな笑み。

音楽が終わり、まずシテがゆっくりとシモテのハシガカリを去っていく。次にツレとワキツレも、この世のものではないかのようにゆっくりと吸い込まれるように去る。やがて音楽の内橋と謡手の里もカミテへ退場。当初、シテが退場しきらないうちに拍手しそうな気配もあったが…沈黙は守られ、大きな拍手。

 

『円山町』…ワキ(新社会人になる女)の七瀬がこれ以上ないぐらい脱力し、やや猫背のまま登場。大学を卒業し就職する春。集団のなかでソワソワ? いつの間にか渋谷へ来た。公園通りからパルコの坂を…地蔵尊前へ。そこへ、透明な樹脂に覆われたモノが運び込まれ、上手奥に置かれる。樹脂のなかは太めの蝋燭みたいなのが五本横に並ぶ(六道の救済に対応した六地蔵でなく、五本の蝋燭? 大乗仏教以前の、修羅を除く五道? 後ジテが修羅道から出張してるから五本なのか?*2)。

そこへシテ(辻に立つ女)が登場。男性ダンサー(小栗)が女装してウィッグを被り、いかにものいでたち。新社会人になる(若い)女と、かつてはそうだったがいまはおぞましさを放つ女の対話。縄張りを侵す別の立ちんぼと勘違いされた若い女は、いえ私はそういうのじゃないですと。「そういうの」? 当たり障りのない返答の〝キレイはキタナイ〟(『マクベス』の魔女みたい)。自分たちの泥を死んだ女(あたし)にかぶらせる。死んだ(殺された)女(あたし)は人々の鏡…。

アイ(花を手向けに来た女)の片桐は死んだ女の命日に黄色い花を手向ける。ミモザの花は国際女性デーのシンボルらしい(実際の道玄坂地蔵尊にもミモザが供えてあった 3/12)。総合職のエリート、社会/会社における女の苦境、彼女は男が作ったコースを…このときの片桐の手のクネクネ動きが凄まじい。価値観に合わないとすぐアウトってことになる、そうやってひとのことをすぐに追いつめる社会のボーダーラインの、ヒョイって向こう側に行ってみせた…(ここだけプログラムに引用されてた)。

アイが退場後、ワキは舞台を移動し、女性が殺されたアパートのあった神泉駅前へ、骸骨の頭のようなトンネル、遮断桿が降りても電車は来ない、代わりに風が…。

…断続的なコーラスハミングのような内橋の音楽で後シテ(道玄坂地蔵尊)が登場。…どんどん変わっていく渋谷、(でも人間社会は)変わらない旧態依然、ずっと見てきた、救えなかった…。その無念さ? 後シテの動きは舞踏的(途中やや間延びも)。ラストはやはり回転。

謡手の詞章はやはり聞き取りにくかった。テキストがほしい。能楽堂では謡本を開いて見る(聴く)人が少なくない(いまは字幕か)。岡田版でも上演中はともかく、せめて見た後に詞章を確認できれば…。

「円山町」のシテ小栗基裕は連ドラ『ブギウギ』にタップダンサー中山史郎役で、「珊瑚」のシテアオイヤマダは映画『PERFECT DAYS』に柄本時生の恋人役で、それぞれ出ていた。舞台を見た当初は気づかなかったが。今回二人とも上記のとおり実に適役だった。

アイの片桐はいりは『座波/敦賀』同様、前半後半の出演で情報量の多いセリフは大変だと思うが、内橋エレキとの〝セッション〟がとても楽しい。ワキの七瀬恋彩は〝おぞましさ〟と対極の〝小綺麗〟な脱力女子を、石倉来輝はノーテンキな内地の〝端くれ〟を、ワキツレの清島千楓はワキをハラで突っ込むウチナーンチュを、好演した。目の前でシテ・後シテのパフォーマンスを注視しつつ無表情でいるのは、簡単ではないだろう。が、その無表情が、観客の情動を映す鏡となる。

パフォーマンスが終わると、シテをはじめ、ワキやワキツレがハシガカリから吸い込まれるように静かにゆっくりと退場するあの感じ、とても好い。能を初めて見たときも、〝いいな〟と思った。なぜだろう。

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浜野佐知監督の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』を見に円山町のユーロスペースへ行った(3月12日)。その行きと帰りに道玄坂地蔵尊を訪ねると、ミモザの花が供えられていた(↑写真参照)。誰が手向けたのだろう。長い枝の黄花の方はサンシュユ(山茱萸)か。

いずれにせよ、道玄坂地蔵尊を訪ねたのは『未練の幽霊と怪物』の舞台が私をそうさせた。大久保奈弥の『サンゴは語る』や「サンゴの移植は環境保全措置となり得ない」を読んだのも、辺野古沖の船転覆事故の続報を慎重に注視しているのも、みな舞台の力。

『未練の幽霊と怪物—「座波」「敦賀」—』(2021)の感想メモはここ。

*1:美術を担当した中山は、2月8日「大塚直哉レクチャー・コンサート〜音の建築—インヴェンションとシンフォニア〜」(彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール)にゲスト出演し、バッハ音楽への深い理解から建築家と作曲家の共通性を興味深く話していた。

*2:そもそも道玄坂地蔵尊は六地蔵ではなく一体の石仏だ。地蔵菩薩は釈迦が入滅した後、弥勒が現れるまでの〝つなぎ〟として六道(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)で苦しむ人々を救うのが役目らしい。つまり地蔵尊は一体でも救済の対象は六つの場所(六道)だ。六本の蝋燭(燈明)が六道の各世界を照らす(救済する)働きを象徴するとすれば、修羅道(あの女性はここでまだ闘っている?)を照らし抜苦する機能のみ〝出張〟して彼女の怨みを代弁すべく比丘の姿で現れた? ゆえに蝋燭は五本なのか?