新国立劇場オペラ《さまよえるオランダ人》2015/指揮者のダウンビート/相変わらずのカーテンコール

さまよえるオランダ人》を観た(1月18日 14時/新国立オペラ劇場)。
このプロダクションの初演は2007年2月。その後2012年3月に再演し、今回は3回目となる。

指揮:飯守泰次郎
演出:マティアス・フォン・シュテークマン
美術:堀尾幸男
衣裳:ひびのこづえ
照明:磯野 睦
合唱指揮:三澤洋史
音楽ヘッドコーチ:石坂 宏
舞台監督:村田健輔


ダーラント:ラファウ・シヴェク
ゼンタ:リカルダ・メルベート
エリック:ダニエル・キルヒ
マリー:竹本節子
舵手:望月哲也
オランダ人:トーマス・ヨハネス・マイヤー


合 唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

序曲。地に足をつけ、腰をじっくり落としたような音楽作り。自然、テンポはゆっくりめ。スマートさとは無縁。中間部の木管による「救済の動機」も無骨なまでにじっくりと奏されるのだが、とても美しい。グッときた。後半の力強い音楽も大地から(海底からというべきか)響いてくる感じ。聴きながら、この指揮者の〝反時代的な〟在り方に思いを馳せていた。これまで東京シティフィルの「リング」4部作や《ローエングリン》《パルジファル》等、けっこう聴いてきたが正直あまりよい印象を受けなかった。いかにも不器用な指揮振りはフルトヴェングラーを想起しないこともないが。今回も出だしは分かりにくそうで、事実、コーラスやオケは必ずしも頭が揃っていたわけではない。だが、整うことの利点より、他ではあまり見出せない無骨でオリジナルな感触はたしかに在る。
第1幕。ダーラントのラファウ・シヴェクは《ドン・カルロ》の時よりこの役の方が合っている。声量があるうえにコミカルな味も出せる。舵手の望月哲也もかなりこなれてきた。オランダ人のトーマス・ヨハネス・マイヤーは不気味さのなかに永遠に死ねない人間の苦悩を歌唱からも佇まいからも滲ませる。ノーブルさも。ダーラントの平凡さと好対照をなしていた。演出は横の移動で船の動きを表し、甲板の表現、幽霊船の出現の仕方、大きな布の帆も含め、シンプルだが効果的。船員たちのコスチュームもオペラの本質とは無関係だが面白い。甲板上に隊列をなして下手へ横移動する幕切れ等。
第2幕。前幕の船同様、下手からの横移動で登場する娘たちの糸車は船の操舵輪(舵)とかたちが同じ。部屋に飾られた男の肖像画はルオーのキリスト像によく似ている。ゼンタのバラードは飯守の棒があまり明快でないためメルベートは少し歌いにくそう。エリック(ダニエル・キルヒ)の夢のアリアは緊張感が漲る。オランダ人が家へやってくる直前、壁の絵が落下する。ダーラントの軽快なアリアはよいと思うが、シヴェクは飯守の棒を遅いと感じたのか盛んにテンポを動かした。二人の重唱。
第3幕。水夫の合唱。やはりアインザッツがずれ気味。エリックのカヴァティーナはまずまず。三重唱。そしてクライマックスへ。原作とは違い、ゼンタは幽霊船に乗り込み、舳先の操舵輪前に立つ。オランダ人を陸に残したまま船首下部のハッチが閉まり、船はいったん上方へあがり、やがて海底に沈んでいく。この間、陸に立っていたオランダ人は、倒れ、救済としての死を迎える。だが、オーケストラが奏でる「救済の動機」は高揚感をもたらすことはなかった。それ以前に指揮者のダウンビートがあまりに唐突でオケがうまく出られないところもあり、さらに、ピアノからフォルテに至る最終音は金管が潰れてしまった。高揚感の欠如は、オランダ人が、ゼンタの沈んだ海ではなく、陸で死ぬ演出のため、二人(の魂)が結ばれるイメージを抑圧するからか。それとも、演奏自体のせいなのか。二日前、ピアノ一台で合唱も演出も不在の舞台では、たしかに熱い高まりが生じたのだが・・・。フルート(相澤政宏)はよかった。ホルンは、他の日本のオケ同様、不安定。合唱は指揮が明快ならもっと素晴らしかったろう。《パルジファル》ではバトンテクニックの問題をさほど感じなかった。初制作でリハーサル期間が長かったからか。
またしてもカーテンコールのことを書かねばならぬ。カーテンを開けたまま前へ2回も歩ませてレヴェランスさせるのはもうやめたらどうか。歌手たちは1度終えてもカーテンが降りないため「またやるの?」と云わんばかりにキョロキョロ顔を見合わる。これまで何度もこのぎこちない光景を眼にしてきた。舞台監督(村田健輔)はいいかげんに学習したらどうか。というより、アウトソーシングの舞台監督の恣意に依存せず、劇場側で、歌手も観客も気まずい思いをせずに済むまともな〝カーテンコール・マニュアル〟を作成すべきだろう。