新国立劇場バレエ『ロミオとジュリエット』2016/初日と二日目

バレエ『ロミオとジュリエット』の初日と二日目を観た(10月29日 14:00, 30日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。
新国立では4度目の公演。劇場の題名表記はなぜか『ロオとジュリエット』。これは発音の現地主義? 物語の現地はたしかにイタリアだが、原作戯曲はイギリスだ(もちろんシェイクスピアはイタリアのバンデッロによる物語をフランス語に翻案したボエステュオー版を英語に翻訳したアーサー・ブルックの『ロミアスとジュリエット』を種本に使ったらしいが)。とすれば、ロオとすべきではないか。そもそもイタリア語の発音に準ずるなら「ロメオとジュリエッタ」だろう。
11月3日(今日)と5日も観る予定だが、とりあえずだらだらとメモする。

音楽:セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)
演出・振付:ケネス・マクミラン(1929-92)
装置・衣裳:ポール・アンドリュース
照明:沢田祐二
指揮:マーティン・イェーツ
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター:近藤 薫)
ステージング:カール・バーネット/パトリシア・ルアンヌ・ヤーン
監修:デボラ・マクミラン

              
ジュリエット:小野絢子[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/米沢 唯[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
ロメオ:福岡雄大[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/ワディム・ムンタギロフ[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
マキューシオ:福田圭吾[10月29日(土)14:00, 30日(日)14:00, 11月2日(水)13:00]/木下嘉人[11月3日(木・祝)14:00, 4日(金)14:00, 5日(土)14:00]
ティボルト:菅野英男[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/中家正博[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
ベンヴォーリオ:奥村康祐[全日]
パリス:渡邊峻郁[全日]
キャピュレット卿:貝川鐵夫[全日]
キャピュレット夫人:本島美和[全日]
大公:内藤 博[全日]
ロザライン:堀口 純[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/木村優里[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
乳母:丸尾孝子[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/楠元郁子[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
ロレンス神父(修道士):輪島拓也[全日]
モンタギュー卿:古川和則[全日]
モンタギュー夫人:寺井七海[全日]
街の娼婦たち:長田佳世,奥田花純,益田裕子[10月29日(土)14:00, 11月2日(水)13:00, 4日(金)14:00]/寺田亜沙子,堀口純,中田実里[10月30日(日)14:00, 11月3日(木・祝)14:00, 5日(土)14:00]
日本ジュニアバレヱ
助演協力:新国立劇場演劇研修所ほか


制作:新国立劇場
平成28年度(第71回)文化庁芸術祭主催公演

初日。小野絢子&福岡雄大
第一幕。オケは中声部がよく聞こえバランスもよく上品で丁寧な音楽作り。イエイツらしい。幕開きから両家の争いへ。最初の印象はダンサーたちが小粒に見えること。特に男性陣。福田圭吾がマキューシオで奥田康祐がベンボーリオ? 逆ではないか。福田は癖の強いマキューシオのキャラにフィットしているか。ティボルト役の菅野英男は感じは出ているがもっと。パリスの渡邊峻郁は気品のある立ち居振る舞い。キャピュレット夫妻は貝川鐵夫・本島美和。本島は貫禄と華を兼ね備えた貴夫人。ロミオの福岡は踊りはさすがだが、踊らない場面での主役としての個性や存在感がもっとほしい。小野のジュリエット。娘の軽やかさはあまり出ていなかった。緊張のせい? 舞踏会でのパリスとの踊りはまずまず。その後、ロミオと二人で隠れて踊るシーンは抑え気味か。バルコニーのパ・ド・ドゥはよい。よほど練習したのだろう。そう思わせるほど、それ以前のあり方と差が感じられる。街の娼婦は長田佳世か。とてもよい。マスクの踊りでトランペットが少し・・・。が、全体的にオケはよい。ダンサーの方は全体的に踊りはうまくなったが、存在の軽さが感じられる。福岡は、ジュリエットと出会う前はもっとボーとした感じ、おバカな感じがあってもよい。大公役はあの弱々しい動きでよいのか。彼はヴェローナを治める立場から反目する両家を右手で、そして左手で制する。たしかに動作があまり強すぎると小者に見えかねない。あえて抑えることで、威光や権威を表現する演出はありだと思う。だが、いくらなんでもあのように弱々しくかつ頼りない動きでは・・・。音楽を感じているか。なにより演出者のダメ出しはなかったのか。
第二幕。街の広場。あの毛むくじゃらのコスチュームはなに? といつも思う。乳母の丸尾孝子は自然で独特の可笑しさが滲み出る(『アラジン』の母役でもそうだった)。礼拝堂。ロミオとジュリエットの秘密結婚。ロレンス修道士は輪島拓也。久し振り。ホルンが少し乱れたのは残念。RとJはなかなか離れない。コレーラとフェリはもっと激しくやっていたか。街の広場。ティボルト菅野とマキューシオ福田の争い。止めに入るロミオ。そのどさくさでティボルトに刺されるマキューシオ。福田の死に方はもっと・・・。ティボルトに復讐するロミオ。福岡も菅野も剣さばきはよい。ただ、後者の死に方も音楽に見合う激しさがほしい。本島モンタギュー夫人の嘆きは素晴らしいの一言。ただ、なんでこんなに甥の死を嘆くのか。といつも感じるが、答えはプロコフィエフがそう作曲したから?
第三幕。RとJのきぬぎぬの別れは、かたちとしてはきっちりやっている。が、視線が釘付けにされるようなあり方になっていない。なぜか。たぶん二人で準備したことを反復している感がぬぐえないから。だが、小野は相手が変わると違ってくる。渡邊パリスとのやりとりはよい。ロレンスからもらった薬とのやりとりも。その前の、ひとりでベッドで考える例のシーンあたりから、生きはじめた。納骨堂で目覚めた後もよい。ロミオ福岡との仮死状態でのパ・ド・ドゥは、これまたかたちはとてもよいのだが、頑張って練習を重ねたのだと思わせてしまう。それでも幕切れのシークエンスでは音楽の力も借りて悲劇的感動を現出させえた。イエイツが振ると東フィルは深くきれいな音を出す。特に弦楽器群。
全体的にドラマの立ち上がり方にデコボコがある。もちろんマクミランの振付自体が、クランコ版等と比べると、距離を取って客観的に描いたかと思えば、突然、接近(接写)して人物の内面を覗いたような描写の仕方をする。だが、今回のデコボコはそれとは意味が違う。たとえば、ロミオとジュリエットのパ・ド・ドゥになるとドラマよりもかたちを重視するあまり、彼らの身体から湧出するものを辿りづらくなるきらいがあった。そこではたしかにマクミランらしい動きは見えるのだが、ドラマが途切れたような印象を受けるのである。これは初日だからか。回を重ねればあるいは舞台が成長するのかも知れない(残念ながらこのキャストはこれが見納めで確かめることはできないが)。
このシーズンからプログラムは販売せず、代わりに薄めの冊子を無料配布。シーズンバレエプログラムは少し大判になり1500円で販売。そこには演目別に簡単な説明やダンサーの談話や記事等が掲載されている。残念なのは、配布冊子の配役表が不完全なこと。オケのメンバー表が削除されたのは名指しの批判を避けるためか。ぜひ復活してほしいが、せめてコンサートマスターだけでも明記して欲しい。誇りと責任を持ってピットに入ってもらうためにも。

二日目。米沢唯&ワディム・ムンタギロフ(主演予定だった井澤駿は怪我で降板)。
序曲。深い音。ロザラインは木村優里。彼女を追いかけるロミオはムンタギロフ。いきなりドラマが立ち上がる。木村は存在がくっきり。ムンタギロフはすでに役を生き、かつ楽しんでいる。そう見える。マキューシオの福田とベンボーリオの奥村。ロミオが長身のため、特に前者は小さく見える。両家の争い。ティボルトの中家正博はよく役を理解している。かたちもよいし、剣さばきも見事。ジュリエットは米沢唯。乳母や両親に守られたドメスティックな世界のなかでおっとり生きている。親がパリスを連れてくると、人形を後ろ手に隠し、背後の乳母楠元郁子に「早く取って!」と急かす。パリス渡邊との対面。家族や親戚が形成する内輪とは異なる、少しだけ外の世界に触れる。羞じらうジュリエット。パリスが去ると、また元の温かな世界へ。自我が未分化なジュリエットを造形する米沢。騎士の踊り。地位や権勢を主張する威圧的な世界。ジュリエットはキャピュレット卿のこうした力に庇護されて育ち、同時にこの力が彼女を悲劇に突き落とす。夫人本島の情念を宿した踊りが素晴らしい。ジュリエットが乳母と登場。ちょっと気後れ。パリス渡邊との踊り。戸惑うJ。心はポジティヴには動かないようだ。二人の踊りをシモテ手前から見つめるRムンタギロフ。二人の出会い。時間が止まったかのよう。だがJ米沢は何が起きたのか分からない。それでも特別な何かが起きたのだ。二人の踊り。JはRにリフトされる度に心が動く。初めての感情が内側から湧いてくる。大きくリフトされてやっと確信する「これが恋なのだ!」 その後、シモテ手前でいま出会った男性が誰なのか乳母から教えられるJ。この瞬間を見ることができたのは今回が初めて。舞踏会はお開き。ドロップが上がるとバルコニーには誰も居ない。カミテ奥からゆっくりとJ米沢が姿を現し、バルコニーの中央に近づいてくる。物思いに耽りRムンタギロフと重ねた手の感触を想い出していると、庭に人の気配が。見つめ合うRとJ。下へ降りてくるよう促すR。パ・ド・ドゥ。ムンタギロフの踊り。まさに踊っている! 決められた振付を反復しているのではない。米沢もそう。二人の踊りは、いまここで動きが生み出されているように見える。踊りが進行するにつれて二人の喜びがどんどん高まり、それが観客席に伝わってくる。こんなパ・ド・ドゥを見たのは初めてだ。
第二幕。街の広場。友人たちとのやりとりのなか、いつもと違うRムンタギロフ。結婚式の行列。Jとの結婚を思うR。乳母楠元がJからの手紙を持って現れる。・・・ロレンス修道士の許で再会した二人。結婚式。なかなか離れない二人。最後はRムンタギロフがJ米沢の手に口づけする。そのあり方が、両者それぞれの身体をくぐらせた演技でとても自然。街の広場。ロレンス修道士のテーマ(メロディ)でRムンタギロフが中央奥の階段から登場。音楽から結婚式を挙げた直後であることが分かる。ティボルトとマキューシオの喧嘩を止めに入るR。が、介在したRの身体が死角となり、マキューシオ福田の背後からティボルトの剣が刺し貫く。親友を殺されたRムンタギロフは剣を取り、ティボルト中家に挑む。殺陣は迫力十分。中央後方階段へ追い詰められながらも反撃する中家の激しい動き。刺された後の断末魔は素晴らしい。中家は正統的なダンサーだ。夫人本島の嘆き。彼女(つまり妻の母)にとりすがるRムンタギロフ「(お義母さん)許してください!」。ジゼルが死んだ直後のアルブレヒトのよう。オケはトランペットとホルンが少々疲れ気味(まだ二日目だが)。ロレンスの場でホルンがまた落ちた。本作のホルンの響きは、バルコニーシーンの始まりの部分も秘密結婚の場も、若い二人のときめく心臓の鼓動に聞こえる。終始ドラマが立ち上がりまくり。寺田亜沙子らの街の娼婦たちは蓮っ葉さがよく出ていて楽しい。
第三幕。きぬぎぬの別れ。J米沢のラインの美しさが際立つ。大人の美。ここから振り返ると、J初登場のヴィヴァーチェの踊りは幼い娘の未成熟なラインを心がけていたことが分かる。すごい。両親にパリスとの結婚を承諾するよう強く促され、乳母にも裏切られ(その時のJはかなりマジ)追い詰められるJ米沢。孤独。ロレンス修道士に助けを求めるしかない。薬を恐がり拒絶するJ。そこでロレンス輪島はJ米沢に一緒に祈るよう促す。二人の祈る姿には真実が宿った。本当に祈っているように見えた。薬をもらって自室へ戻る動きはまだ抑え気味(小野は手にした薬を毒蛇か爆弾のように身構えての動きだった。たぶんそれが型なのだろう)。両親とパリス、乳母が登場。パリスとのパ・ド・ドゥでは、死体のように活力を殺して踊るJ米沢。これはラストでの仮死のJとRの踊りの予知(一種のドラマティック・アイロニー)というよりも、「私と結婚してもあなた(パリス)は死んだ(も同然の)私を得ることになるだけよ」と言っているように見えた(聞こえた)。立ち去る乳母楠元はJから見放され、ちょっと気の毒なくらい(乳母役はもっと鈍感さが必要)。納骨堂。Rと仮死のJとのパ・ド・ドゥ。J米沢はとてもリアル。いわゆる美や様式よりもリアルであることを優先させている。Jは目覚め、驚く。恐怖。内側からの嘆き。絶望。自然に涙が出た。
米沢唯は、どんな感情が湧いてくるのかあらかじめ決めないで行動し踊る。行動してみなければ、踊ってみなければ、そのとき(いまここで)何が起きるのか、どんな感情が生まれるのか分からない。それは、生きてみなければ何が起きるか分からないこの人生と同じである。あるいは何も起きないかも知れない。ゆえに、そうした「いまここで生きる」あり方を徹底させて行動し踊るのは、舞台人にとって、とても勇気の要ることだ。このあり方は、今回、ムンタギロフも同じだった。
なぜ準備したことをなぞってはいけないのか。それは、観客もいまここ(劇場)で生きているから。演者が過去をなぞる演技をすると、いまここにいる観客の存在を無視すること、蔑ろにすることになるから。その観客の違和感は、強いていえば、電車内で隣り合わせた客が携帯で通話しているときのそれに似ているかも知れない。最後に三つの文章を引用したい。いずれも俳優の演技について論じたものだが、ダンスについてもそっくり当て嵌まることが分かると思う(引用中の[ ]は引用者による挿入、( )は原文のもの)。

彼[俳優/ダンサー]の行動(アクション=演技)は、ただ舞台の上にくり広げられるものではなく、観客のからだにとどき、観客のからだに、あるふるえを起し反応させるとき、演技は初めて成り立つのです。[……]演技は観客の息づかいにふれ、観客のからだにおいて成り立つ。(竹内敏晴『劇へ――からだのバイエル』1975年)

美しいということば[振付/動き]に感情を込めるというしゃべり方[踊り方]をすればことば[振付/動き]は過去をくり返そうという不毛な試みになって、今、ここに、生まれ出てくることば[振付/動き]にはならない。つまり死んだ言語[振付/動き]に化粧しているにすぎない。(竹内「演じない演劇のために」山崎哲との対談『理想』1985年10月号)

彼[スタニスラフスキー]がたどりついたのは、身体的行動の芸術という考え方でした。つまり、肉体ではない、心理でもない、それをひとくくりにして一人の生きた人間が何に向かってどのように行動するかということがその場で生きるということであって、その生きている行動を捕まえさせすれば、舞台でも生きることができる。心理主義のように予め理解したものをなぞってみせるのではなく、役者[ダンサー]は実際にその場に立って行動しなければいけないということです。それが、スタニスラフスキーの結論だった。(竹内『レッスンする人』2010年)