新国立劇場バレエ『ラ・バヤデール』2019 初日(続き)&千穐楽【訂正加筆】

『ラ・バヤデール』初日(3月2日[土]13:00/新国立劇場オペラハウス)の続き。ニキヤ:小野絢子/ソロル:福岡雄大/ガムザッティ:米沢 唯

これまで小野は福岡と踊ると、やや小さく纏まる傾向が無きにしも非ず。一方、ゲストダンサー相手には、対他的なあり方がより開かれて、踊りが大きくなるように感じる。ソロル役にムンタギロフを迎えた前回(2015年2月)がそうだし、コルネホと『こうもり』を踊った時 もしかり(2015年4月)。

今回はどうか。福岡とこの演目を踊るのは初めてのはず【ではなく、2011年1月に組んでおり、今回は8年振りの共演】。それもあるのか大変よいパフォーマンスだった。第1幕はまずまずだが、それ以降、第2幕のソロを含め好演。「影の王国」では大きな踊りを見せた。福岡のサポートは盤石でリフトがかなり高い。彼のヴァリエーションは見事だった。

ソロルとガムザッティの婚約披露宴。ガムザッティの米沢は王(ラジャー)の娘として終始ゆったりした気品のある踊り。動きのキレを誇示せず、要所はしっかり押さえた踊りを見せた。そこへニキヤが登場し恨み節を踊る。ガムザッティはわざと手をソロルに差し出し・・・。チェロのソロ(伊藤文嗣)が素晴らしい。花籠を渡されたニキヤ(小野)は大きなアラベスクを見せた。・・・ニキヤが毒蛇に咬まれ、ハイ・ブラーミン(菅野)から渡された解毒薬も、ソロルが自分への思いを貫く意志がないのを見て取り、それを捨てて死ぬ。驚いたガムザッティは父に訴えるが、父はそれを制する・・・(以下前回公演のメモに譲りたい)。ラジャーの貝川は登場時の歩行が少し軽いか・・・

3月10日(日)14:00 千穐楽翌日3月11日はマリウス・プティパ(1818-1910)の誕生日

ニキヤ:米沢 唯/ソロル:井澤 駿/ガムザッティ:木村優里 

第1幕ハイ・ブラーミン(大僧正)が誰なのか分からずに見た。あんな長身の若いダンサーいたか? 休憩後プログラムを見たら、貝川鐵夫だった! 宗教的権威よりニキヤへの思いに比重を置いた造形(初日の菅野英男は逆)。もっと重みがあってもよいが、これはこれでOK。苦行僧らの踊りは迫力(脚力)不足。ソロル井澤は戦士として少し甘めだが、主演の趣きはある【山本隆之の佇まいを彷彿させた】。ニキヤ米沢の神々(聖なる火)に捧げる踊りは前回に比べやや淡泊に見える。大僧正の口説きを断るシーンで、微塵もゆるがず断るニキヤに、狼狽える大僧正。(このとき貝川とは認識せず)なんか新鮮でよいと思った。ニキヤ米沢とソロル井澤の密会の踊り。先ほどとは打って変わった人間的な踊り。サポートはまだ改善の余地がある。この喜びのシーンでも米沢はいまひとつ晴れやかでないと感じるのは気のせいか(先週同様、ガムザッティを踊った翌日にニキヤを踊るのは体力的かつ気力的に相当きつかったのだろう)。

第1幕第2場「ラジャーの宮殿の一室」。ラジャー(王)役の中家正博は重みがあって大変よい。その娘との縁談話に当惑するソロル井澤。ガムザッティ木村は少しお高く止まった王家の娘。ニキヤとガムザッティの対決。あの手この手でニキヤを諦めさせようとするガムザッティ。だが、カミテを指さし、聖なる火の前で誓ったのだと、まったく取り合わないニキヤ。・・・アクシデンタルに目にしたナイフを掴み、ガムザッティにナイフを振り上げるニキヤ。アイヤに止められると、しばらく途方に暮れる。自分の行動なのに、何が起きたのか分からない。この宙吊り時間がこれまで見た中でもっとも長かった。やっと自分がやってしまったことの重大さを悟り、居たたまれなくなりカミテへ走り去るニキヤ米沢。すごくリアル。

第2幕「ラジャーの宮殿の中庭」婚約披露宴。ジャンペの踊りはいまひとつ。ガムザッティ(木村)の踊りは大変よいが、王家の娘としてはどうか。ブロンズアイドルの奥村康祐は、時間が細分化された踊りで魅せた。ソロル井澤のヴァリエーションは珍しく少しぐらついたが(どうした?)他の踊りはきれい。壺の踊りの原田舞子は表情豊かでユーモアがあり、思わず頬が緩む。子役とのやり取りも血が通っていた。

ニキヤ米沢登場。恨みより悲しみが勝っている。これみよがしにソロルへ手を差し伸べ、その効果を(ニキヤに)見るガムザッティ木村はなぜか当惑し、ふて腐れたような表情を浮かべた(?)。ここは王の娘として、舞姫にすぎぬニキヤに優越し勝ち誇った態度が必要。花籠の踊りにアップテンポがないのはやはりさびしい(慣れの問題だとは思うが)。

この日もチェロの伊藤文嗣は四年前同様、素晴らしい。ヴァイオリンソロ(ニキティン)も頑張った。

第3幕「影の王国」。山から下りてくる影(死者の霊)たちはいつもながら実に幻想的。ちなみに1877年の初演セットは暗がりの山ではなく、光り輝く天空の城だったらしい。

そもそも「影(霊)たちの入場」の踊りは、ギュスターヴ・ドレがダンテの『新曲』「天国篇」のために描いた挿画(1869)から想を得たという(画像のキャプションは平川祐弘訳/河出文庫に基づく)。

 太陽天の祝福された魂(左)  土星天「光まばゆい黄金色の梯…」

だが、プティパは1900年の再演でセットを暗い岩山(ヒマラヤ山脈)に変え、コール・ドも32名から48名に増やした。人数はともかく美術の方はそれが現在まで踏襲されている。なるほどインドが舞台のバレエにキリスト者ダンテの「天国」ではちぐはぐだ。背景をヒマラヤに変えたのは、インド宗教(ヒンドゥーバラモン教)の趣きを強めるためか。天上の宮殿よりも山から霊が降りてくる方が我々には親しみやすい。死んだ魂は、十万億土の彼方へ消え去ることなく、国土の山中に留まり時を定めて家に戻ってくる。そう信じているらしい我々には(柳田國男『先祖の話』)。

影(死霊)となったニキヤ米沢は渾身の踊り(言語矛盾だけど)。アダージョはラインの美しさを含め素晴らしかった。観客を注視させる集中力が凄まじい。ソロル井澤のヴァリエーションもよい。ニキヤの高速シェネはすごいキレ。ヴァイオリンソロのヴェール(スカーフ)のヴァリエーションでは、ヴェールが身体に巻き付くアクシデントも。が、米沢は動じた様子など微塵も見せず、何もなかったかのように踊り続けた。

この踊り、プティパのオリジナル版ではソロルは参加せず、ニキヤだけが長いヴェールを持って登場する。ヴェールの端は舞台上部に繋がれており、ニキヤが手を放すとヴェールは舞い上がり天空へ消えたとか。「まるで霊に導かれたかのように」。そもそも「影の王国」のニキヤの振付は大部分がプティパではなく、ポノマレフ&チャブキアーニの復刻版(1941年)でニキヤを踊ったドゥジンスカヤのものという。高速ピケ等を加えたのも彼女らしい(以上斜体の主な出典は下の画像を含め「マリウス・プティパ協会」HP)。

1900年「影の王国」 中央にクシェシンスカヤ(ニキヤ)とゲルト(ソロル

寺院崩壊後のラスト。四年前のニキヤ米沢はソロル福岡にその気があるなら付いてきなさい、と慈母観音のようなあり方だった。が、今回は違う。魂(霊)として何の感情も交えずただ天上へと歩んでいく。なんかしびれた。同時に、強く勇気づけられた。体調等は万全でなかったはずだが、全身全霊、渾身の力を振り絞って踊りきる。カーテンコールでの米沢唯は、実に晴れやかだった。観客へ、指揮者へ、オケのメンバーへ、パートナーへこころから感謝を捧げる。素晴らしいレヴェランス。