新国立劇場バレエ『ロミオとジュリエット』2016 四日目と楽日/キャスティング及び緞帳の絵柄のことなど

ロミオとジュリエット』の四日目と千穐楽を観た(11月3日 14:00, 5日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

四日目。
第一幕。この日は木下嘉人のマキューシオ。冒頭でロザラインに付きまとうロミオ(ムンタギロフ)と対話するシーン。対話になっていた。両家の争いを収める大公役はやはりNG。大公のハラができていない。両親がジュリエット(米沢唯)にパリス(渡邊峻郁)を紹介するシーン。Jにとってパリスは、30日では「外の世界」に見えたが、この日は「初めて異性に会った」感じ。パリスに肩を抱かれた時、手に口づけされた時の小さな驚き。舞踏会。気後れするJは、父の姿が目に入ると駆け寄り、安心する。さらに母にも。その後、パリスと踊るなか、カミテに座る乳母に、カミテに立つ従兄弟のティボルトに走り寄る。近親者の庇護の中で生きるJ。が、少しずつパリスとの踊りに慣れていく(?)J。あるいは、他人との関わりから自我が形成されはじめる。そうしたコンテクストのなかでJはRと、まったき他者と出会うのだ。Rと密かに会うなかで、あれほど駆け寄り頼りにする存在だった両親や乳母、従兄弟らを追い払い、Rと二人きりの時間を持とうとするJ。Rと手を触れ合い、リフトされるたびに、こころが、世界が劈(ひら)かれていく。バルコニー。しっとりとしたオルガンの響きが美しい。前回と少し違う登場の仕方。米沢は、パ・ド・ドゥの間もJがここまで生きてきた流れを途切らせることはない。その流れのなかで踊っていく。Rが踊っている間も同じ。そして最後に口づけする。その後、ムンタギロフが思わず手を口に当てる初々しい仕草は、米沢のJを生きるあり方に触発されたものだろう(と感じさせる)。二人はその場で対話し、変化し合っていく。木下のマキューシオのソロは少し抑え気味か、それとも初役の初日のため慎重になっているのか。それでもマキューシオのハラで踊ってはいた。オケは疲れもみえるがまずまずか。弦楽器群はもっと透明な音色がほしい気もした。
第二幕。街の広場で登場したRムンタギロフは前回も今回もなぜか、それ以前より小さく(他の日本のダンサーたちに馴染んで)見えた。マンドリンの踊りのリーダーは福田圭吾。福田はこっちの方がフィットする。秘密結婚。ホルンはまたもや十全に演奏できず。ティボルト中家とマキューシオ木下の喧嘩。木下の死に方はまずまず。が、もっとできる。ティボルトとRムンタギロフの決闘。中家の死に方は前回の方がよかった。キャピュレット夫人の嘆きは相変わらず。オケはいつものようにトランペットとホルンにスタミナが足りない。最後までちゃんと丁寧に吹いてほしい。
第三幕。後朝(きぬぎぬ)の別れ。初めて他者に出会い、世界が劈かれたのに、別れなければならない。本当に悲しいJ。一幕二場の登場時の娘とは見違える女性になったJ。そのように悲しむ新妻Jのもとへ、よりによってパリスとの縁談を急ぐ父と母。ありえない! 両親はともかく、あろうことかRとの結婚を知る唯一の近親者乳母までもが別の男性(パリス)との結婚(重婚)を促すとは! キャピュレット貝川と夫人本島は似合いの夫婦。二人のやりとりはとてもリアル。怒る父貝川が拒絶する娘米沢をカミテで折檻し激しく突き放すシーンは秀逸。その後、父貝川はシモテへ立ち去るとき、一度娘の方に振り向いて言う「すべてはお前を思ってのことなのだ。よく考えなさい!」と。そう聞こえた。厳しくも愛情深い父親像が垣間見えた。ロレンス修道士のもとへ。そして戻ったところへパリスを連れた両親と乳母が再登場。乳母を見るとJは「あなたは誰」と冷たい視線。この場でのカミテ奥は、Jにとって、Rが去って行ったいわば聖域。「私の背後にはロミオが居る!」

千穐楽
第一幕。乳母は丸尾孝子。ふっくらし、何も考えず(?)受けとめる乳母造形。とてもよい。木下マキューシオはもっとトリックスター的な、悪さをするいたづら者であってよい。中家のティボルトは立ち姿がとても決まっている。
第二幕。バルコニー。たぶん二人とも中一日でからだは疲れているのだろうが、呼吸はとてもよく合っている。Jの手紙を持ってくる乳母。よい。まさに乳母だ。ロレンス修道士。秘密結婚。ホルンが初めてまともに吹いた(四回通って初めて聴けた!)。街の広場。ティボルトの中家はかたちがよいだけでなく、ハラもティボルト。闘いも死に方もよい。本島の嘆きもファビュラス! オケもよい。
第三幕。後朝の別れ。本当につらく悲しい。この場が、ラストシーンより、最も強く感情が出ているのではないか。ロレンスのチャペルから薬をもらって部屋へ戻るシーンで、J米沢は薬が生き物のような動き。納骨堂。とても悲しく絶望的な場面。が、二人の行為は、ある意味、心中だ。Rも死んだ(と思った)Jのもとへ行くために毒を飲む。Jも死んだRと一緒になる(在る)ために、短剣でみずからを刺す。見ている方は、Jが本当は死んでいなかったことを知っているから、悲劇的で痛々しく見える。が、本人からすれば、Jを生きるダンサーからすれば、もちろん絶望的ではあるが、Rのからだがそこにあり、その手に触れて、その先(Rと一体)の世界へ赴くという気持ちで行動(演技)するだろう。とすれば、そこにはかすかな救いがあるのでは? 三度米沢の舞台を見てきて、後朝の別れの鋭い悲しみと、その後の、信頼していた親と乳母との深い断絶感がこちらのからだに残っているだけに、そう感じたのだと思う。
三回の米沢とムンタギロフの舞台を振り返ると、二人の踊り方やあり方がとてもよく似ている印象だ。踊りのかたちや感情を強く際立たせたり押し出したりすることはまったくない。むしろ、それぞれの振付や動き、その場の状況や関係性などによって、なにかが生まれ出てくるのを待っているような、確かめているような、そんなあり方で踊っているように感じた。墨絵のような淡彩のようなイメージが残ったのはそのためか。その分、見方によっては、マクミラン的ではないともいえる。実際、マクミラン的な味わいは二人の踊りからさほど感じられなかった。米沢がアシュトンの『シンデレラ』を初めて踊ったとき(2012年12月)作品を脱構築していると感じた(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20121219/1355912400)。同じことが今回もいえるかも知れない。もちろん、米沢は意図してそうしているのではない。ジュリエットという役を、その行動を、しっかりと自分のからだに入れ、その役を生きてみたら、我知らずマクミラン作品を脱構築していた。そういうことだと思う。ムンタギロフも米沢の踊り方に見事に呼応し、合わせていた。結果、作品の「恋愛」やエロス的側面は遠景に退けられ、一方で、世間知らずの娘が場面毎に成長し変化していくプロセスは実に微細に描かれることになった。小野と福岡の舞台にもいえるが、今回は、マクミランお得意のエロスが横溢する舞台ではなかった。これは、芸術監督の好みもあるかも知れない。米沢唯にはぜひ『マノン』を踊ってほしい。『ホフマン物語』のジュリエッタ役を見る限り、かなり期待できると思う。

今回の配役には少し不満がある。全6回公演で2通りのキャストしか見られないのはやはりさびしい。井澤が出演したとしても2.5通りだ(初演時はデュランテ&テューズリー/酒井はな&森田健太郎/志賀三佐枝&マトヴィエンコの3キャスト、再演はフェリ&コレーラ/酒井&山本隆之/志賀&マトヴィエンコの3キャスト、再々演は小野絢子&マトヴィエンコ/ベンジャミン&モラレス/本島美和&福岡雄大/酒井&山本の4キャストで、いずれも全6回公演)。バレエ団からはジュリエット役2人、ロミオ役は結局1人。団の将来を考えれば、若手に少しでも経験させておく必要がありはしないか。たとえば、木村優里と渡邊峻郁で一回でもよいから見てみたかった(あるいは初めから木村と井澤で)。他の脇役も同様。キャピュレット夫妻は全日同じだが、数回は別のキャストにすることもできたはず。さらに、プリンシパルの八幡顕光がまったく出演しなかったのも気になるところだ。

ところで新国立版『ロミ&ジュリ』は、2001年の初演以来、バーミンガム・ロイヤル・バレエの舞台セットや衣裳が使われており、場面転換毎に降りてくる二つの城塞を描いたドロップカーテンも同様だ。この絵柄は、シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284?-1344)の作とされるフレスコ画『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬像』(1328?)が元になっているらしい。初演のとき同行した友人の美術史家からそう教わった。この壁画にはシエナ傭兵隊長グイドリッチョ・ダ・フォリアーノがゲルフ党のモンテマッシ城塞(絵の左)を攻略する場面が描かれている。騎馬の右後方に見えるのはシエナ(ギベリン党)の城塞と野営テントである。つまり、画の背景にはローマ教皇派(ゲルフ/グエルフィ党)と神聖ローマ皇帝派(ギベリン/ギベリーニ党)の熾烈な抗争の歴史があり、様々なヴァージョンが流布する「ロミオとジュリエット」の話も同系と考えられている。直系の舞台作品としてはベッリーニのオペラ《カプレーティ家とモンテッキ家の人々》(1830)が有名だ(新国立劇場ベッリーニのオペラをこれまでまったく上演していない)。

この絵をドロップに採用したBRBの制作者は、描かれた要塞はヴェローナでないとしても、両家の対立を象徴するのに打ってつけとみたのだろう。ただしドロップでは、ご覧の通り、傭兵隊長がカットされただけでなく、二つの要塞が左右入れ替えられている。おそらくこれは、第一幕の両家の闘争シーンでシモテにモンタギュー側が、カミテにキャピュレット側が陣取るマクミランの演出に理由がある。つまり、原画のままだと、両陣営の城の位置関係が舞台の構図と逆になってしまうのだ。ゆえに、ドロップの左(シモテ)にやや遠景で小さく描かれたギベリン党(モンテッキ/モンタギュー家)の城を、右(カミテ)にゲルフ党(カプレーティ/キャピュレット家)の大きな城を描いたのだと思われる。