2014 新国立劇場 こどものためのバレエ劇場『しらゆき姫』/J. シュトラウス II のバレエ音楽/ストーリーの異同/こどもに伝えるメッセージ

『しらゆき姫』を全4キャストで観た(7月25日 11:30・15:00・26日 11:30・15:00/新国立劇場オペラハウス)。この演目は、その後、柏崎市文化会館(新潟)、フェスティバルホール(大阪)、アルカスSASEBO大ホール(長崎)で上演され、今後はサンポート高松(香川)、びわ湖ホール(滋賀)、新潟県民会館での舞台を予定している。
2009年4月(新国立中劇場)の初演は子供優先で見ること叶わず、翌2010年8月に和光市民文化センターで初めて見た。つまり4年ぶりに見たのだが、印象はまったく違う。以下、遅ればせながらメモする。

音楽:ヨハン・シュトラウスII世
監修:牧 阿佐美
振付:小倉佐知子
音楽構成:福田一
構成・演出:三輪えり花
装置・衣裳:石井みつる
照明:杉浦弘行
出演:新国立劇場バレエ団
語り:要田禎子/鳥畑洋人/米倉紀之子/田中久也(以上 劇団昴


しらゆき姫:小野絢子(25日 11:30・27日 15:00)/米沢 唯(25日 15:00・27日 11:30)/長田佳世(26日 11:30)/細田千晶(26日 15:00)
レックス(王子):福岡雄大(25日 11:30・27日 15:00)/林田翔平(25日 15:00・26日 15:00・27日 11:30)/奥村康祐(26日 11:30)
お妃:本島美和(25日 15:00・26日 11:30・27日 11:30)/堀口 純(25日 1500・27日 11:30)/寺田亜沙子(26日 15:00)
ミラー(鏡の精):小柴富久修(25日 11:30・26日 11:30・27日 15:00)/宝満直也(25日 15:00・26日 15:00・27日 11:30)

音楽が素晴らしい(四年前もそう思ったらしく直後にボニング指揮のCDを入手していた)。ヨハン・シュトラウスII世が残した未完のバレエ音楽『灰かぶり姫(シンデレラ)』(バイヤー補筆で1901年に初演)と失敗に終わったオペラ『騎士パズマン』(1892)のバレエ音楽から構成(福田一雄)。当然ワルツが多くなる。特に『マノン』のデ・グリューによる挨拶のソロに似た音楽(ワルツ)が要所要所で流され、とても印象的。台本の原作はもちろんグリム兄弟が編纂した昔話集の一篇「白雪姫」。たぶんディズニー映画の『白雪姫と七人の小人たち』(1937)なども参考に、日本の子供向けにアレンジしたのだろう。バレエといっても〝語り付き〟なのが面白い(ナレーションをはじめほとんど録音だがダンサーたちがその場で台詞を吐くところもある)。セットはシンプルだが効果的。七人の森の精の家は、木の質感が(子供のためにも)好ましい。上から吊した縄暖簾のような紐が降りてきて深い森を表現する。そこに照明が当たるととてもきれい。毒リンゴを作るお后は『ラ・シルフィード』の魔女マッジみたいで楽しい。音源使用のためオケピットは蓋され、森の精たちがピットの真横から出入りする。これがドラマの立体化に思いのほか貢献した。後半、雷鳴ののち姫と王子のウェディングを祝す花火が劇場の天井に打ち上げられる。秀逸な照明効果。照明もセットも演出もすべて四年前より数段ヴァージョンアップしている印象だ。和光市民文化センター大ホールとオペラ劇場の(設備を含めた)違いがそう錯覚させるのか。
棺(ひつぎ)台のしらゆき姫を訪れた王子は、『ロミ&ジュリ』で納骨堂に眠るジュリエットのもとを訪れたロミオを想起させる。その後の七人の精と王子のドタバタでは、プティ版『こうもり』のグランカフェでヨハンが謎の美女(実は妻のベラ)に言い寄る男たちを払いのけながら踊る場面が頭に浮かんだ。後者で使われた「雷鳴と電光」同様、前者もたしかポルカだったからなおさらだ。結婚式の最初のパ・ド・ドゥの場にお后とお付きの二人の来襲後、母娘の和解シーンで感情が動いた。その後、ミラーが一緒に踊るよう促すと、ヴァイオリンのソロ(あとでCDを聴いてみると『騎士パズマン』の音楽だが、劇場ではここだけ音源が違うように感じた)に導かれ、あらたまった特別な時空間が現出する。二度目のパ・ド・ドゥでは、プロコフィエフを思わせる〝銀色の音楽〟がよく合っていた(プロコフィエフの『シンデレラ』は1944年でシュトラウスより45年後発)。
4キャストのどの組もそれぞれ個性豊かで楽しめた。小野絢子は初演時からタイトルロールを踊っており(和光市では王子が貝川鐵夫、お后に大湊由美、ミラーは小笠原一真)、さすがにかたちが整い踊りも安定的。後半、勝手に他人(森の精)の家で眠り、帰宅した住人たちを毛布から出た脚の動きで驚かすシーン。また、リンゴの欠片を吐き出し生き返るところなどは、小野にしか出せないコミカルな味。パ・ド・ドゥ(アダージョだけで基本的にヴァリエーションはない)は少しあっさり気味。福岡王子は、小野との対他的な場面でよりフィクショナルに生きてもよい。米沢唯はラインや〝美しさ〟への意識量を以前より増やしていた。見る者を注視させる佇まいは相変わらずで、一つ一つの動き、踊り、対他的なやりとりが丁寧。しらゆき姫と七人の森の精との日常は、姫が彼らに不可欠となったことを物語る。このあたり米沢は細かい。(このとき森の精のダンサーたちはかなりハードに踊った直後「行ってきまーす!」と声を出すが、さぞ息が上がっていただろう。)結婚式に闖入したお后に魔法で引き寄せられるシーンは、米沢の動きで初めて気づいた。怪我の菅野英男に代わり林田翔平が相手役。林田はいちいち米沢と呼吸を合わせ、サポートしていく。アダージョではプラスアルファが滲み出た。大したもの(ただ、カーテンコールで林田はパートナーとのレヴェランスがなかった。細田との時も。スタッフは教えてあげて)。長田佳世は14歳には見えないが、踊りの質と持ち前の誠実さで、それなりにしらゆき姫を造形した。奥村のサポートは盤石とはいえないが、支えようとの意志が見て取れた。細田千晶は、踊りはシュアでフレッシュな主役。よいと思う。林田ともよくマッチした。リフトが少し不安定か。
本作はある意味お后が主役ともいえる。本島美和は出色。役どころをよく押さえ、踊りも豪華。堀口純は悪くはないが、悪役の腹ができるともっとよくなる。寺田亜沙子は初めての悪役か。顔かたちはカワイイが、悪をしっかり造形し、思い切りもよい。幕前での魔女歩きなどは半端でない。ラストでの寺田の踊りはさすがにきれい。お后のお付きの二人のワル・ガキがいい。益田裕子・朝枝尚子(26日 11:30)は嵌まっていた。この対のキャラクターは既視感と共に見ていたが、後で想い出した。プレルジョカージュの『ロミ&ジュリ』に出てくるツインの乳母だ。役どころはまったく異なるが、たしかひっつめの髪型なども似ていた。あるいは、ディズニー版のカラスのイメージも寄与したか。いずれにせよ、巧みな造形だと思う。
ミラー(鏡の精)役の小柴富久修は不気味な存在感で舞台全体を引き締めた。宝満直也も悪くないが、もっと不気味感や他を超越する存在感が欲しい。動物や小鳥の小動物たちは生命感や躍動感をよく出していた。森の精たちの男性陣も健闘した(アンダーシュ・ハンマルはこれが最後の舞台か)。彼らはなにかにつけて円陣を組み民主的に(?)事を決める。面白い。
本作は「こどものためのバレエ劇場」とあるが、大人も十分楽しめる。というより、大人が楽しめる質の高さこそ、「こどものためのバレエ」の条件だと思う(こどもを嘗めてはいけない)。四年前は物足りなさが残ったが、今回は満足した。休憩を入れて一時間半。音源は録音だから、ツアーにはもってこいだ。よいレパートリーに仕上がったと思う。
何度もいうが、ヨハン・シュトラウスIIの音楽が素晴らしい。シュトラウスバレエ音楽『灰かぶり姫』は、当時、ウィーンの宮廷歌劇場総監督に就任したマーラーから依頼されて作曲したものと思っていた(小宮正安『ヨハン・シュトラウス――ワルツ王と落日のウィーン』)。が、CDに付されたピーター・ケンプ(英国ヨハン・シュトラウス協会)の解説を読むと、経緯はそう単純ではなかったらしい。長くなるので(すでに長いが)詳細は省く。いずれにせよ、その洗練されたワルツは、必ずしも「しらゆき姫」のストーリーに合っているわけではないのだが・・・。
ストーリーの異同について
グリム兄弟の原作「白雪姫」を読むと、本作のストーリーとはかなり異なることが分かる。もちろん原作といっても、すでに1812年の初版と最後の第七版(1857)とでは異同がある。たとえば、初版では、白雪姫の美しさに嫉妬して殺そうとするのはなんと実の母であり、それが継母に変更されたのは第二版以降らしい(乾侑美子訳『1812年初版グリム童話』註)。当然ながら(?)新国立版バレエは後者を踏襲している。以下、決定版といわれる第七版(最終版)と初版との主要なヴァリアントをいくつか列挙し、さらに新国立版と比べてみたい。
まずは、お后が嫉妬にかられ狩人(猟師)に姫(娘)を殺すよう命じる条り。第七版は継母(お后)である。「『あの子を森のなかへつれていっておくれ。もう見るのもいやだ。あの子を殺して、その証拠に肺と肝をもっておいで』と言いました。・・・猟師が山刀をぬいて、白雪姫のけがれを知らない心臓をつき刺そうとすると、姫が泣きだして、/『猟師さん、お願い。わたしを殺さないで。このおいしげった森の奥へ行き、二度とふたたびうちへはもどらないから』と言いました。白雪姫がとても美しかったので、猟師はかわいそうになり、/『それじゃあ、行くがいい。かわいそうな子だ』と言いました」(『完訳グリム童話集』野村泫訳)。
初版では、お后は実の母親だが、殺した証拠に肺と肝臓を持ってくるよう命じるところまでは同じ。ただ、そのあと「塩ゆでにして食べるから」の言葉が見出せる。また、猟師が山刀を抜くとき、第七版では「白雪姫のけがれを知らない心臓を・・・」とあるが、この文言は初版にはない。猟師が殺しをためらうのは、いずれの版でも姫が「とても美しい」から。だが、新国立版では、猟師が山刀(ならぬ猟銃だったか)を構えたとき、しらゆき姫は、自分を殺そうとする猟師のために神に祈るのだ。「この人をお許しください」と。泣きながら「二度とお城には戻らないから」と現実的な命乞いをする白雪姫に比べ、ここでは「けがれを知らない」こころの優しさが、というか、聖人のような超越性が賦与されている。猟師が殺さないのは、容姿が「美しい」からではなく(原作)、こころが「美しい」から(新国立版)、というわけだ。
グリムでは王子が登場するのは姫が棺の中に入ってからだが、新国立版では、生前(前半)に二人が出会うシーンを設けている。これは、おそろくディズニーの映画版に倣い、後半で王子が訪れる唐突さを解消すると同時に、バレエとして、王子の出番を増やすためだろう。
グリムの「七人の小人」は、新国立版では「七人の森の精」に変更されている。アニメなら「小人」の登場はわけないが、舞台上のダンサーがしらゆき姫より身体を縮小するのはさすがに無理。「森の精」なら姫と同等の背丈でも違和感はない。ところで、グリムではなぜ小人なのか。思うに、そうでなければ、男七人と14歳の美しい少女の同居となると、エロス的な関係が生じてしまう。それを避けるために小人にしたのではないか。逆にいえば、新国立版では、そうした関係性が想定されてもおかしくない状況だ。観客は(大半は子供だとしても)、そうした感情を抑圧して見ることになる(かつて寺山修司が「サザエさん」全巻を読破し、そこに性生活描写の不在を指摘したことを想い出した)。
だが、もっとも大きな変更は、お后の運命である。グリムのどの版でも、お后は自分より「千倍も美しい」といわれた若いお后(白雪姫)を見るため「妬み心に突き動かされて、結婚式に出かけてい」く(初版)。そこで、火に焼かれた真っ赤な鉄の上靴を履かされ、死ぬまで踊り続けることを強いられるのだ。つまり、原作では、実の母親(初版)/継母(第二版以降)が自分の娘の美しさに嫉妬し、その子を殺し、その内蔵を食べようとする。しかし、その企みは失敗し、罰として、焼かれた鉄の上靴を履かされ、踊りながら焼き殺されるのだ。一方、新国立版バレエでは、お后が結婚式に乱入すると、姫を大事に思う森の精たちはお后を網のようなもので捕獲し、懲らしめようとする。が、しらゆき姫は(継母とはいえ)自分を育てた母だからとそれを止めるのだ。すると、「お后は、しらゆき姫がいちばん美しいといわれるわけが、このときやっと分かったのです」という趣旨のナレーションが流される。つまり、ここでも外面ではなく内面やこころの美しさが強調され、改悛したお后と娘の二人は和解し、全員でワルツを踊って幕となる。ディズニーの映画版ですら、お后は崖から転落して死ぬことを思えば、これは大きな違いである。新国立版バレエの制作スタッフは、「4歳から小学6年生のこどもたち」に、こころの美しさこそもっとも大切だというメッセージを伝えたかったのだろう。
グリム兄弟が編纂した話では、版を重ねるごとに、一見、不合理と思える箇所は合理化され、論理的かつ倫理的に整えられたといえそうだ。それは、時代と共に変遷した価値観の反映ともとれる。だが、そもそも人間は、その生は、合理的ではない。倫理的ではなおさらない。その意味で、グリムの初版には、そうした人間の生が、その真実が、より直接的に映し出されているともいえる。たとえば、実の母が自分の娘を嫉妬心から殺したいと思う。そこには、なにがしかの(深層心理的)真実があるだろう。これを継母に変えるのは、その真実を隠したいからだろうか。だとすれば、隠したいのは誰? 何のために?
新国立版の「しらゆき姫」は、上述のとおり、よく出来ており、よいバレエだと思う。そう認めたうえで、ストーリーに盛り込まれた価値観について、考えてみたい。
このバレエの主人公は、継母の命令で自分を殺そうとする猟師を前に、命乞いもせず、その殺し屋のために神に祈る。すると、死を免れる。あるいは、自分を殺そうとした継母が、自分を愛する森の精たちに捕らえられ、危害が加えられようとしたとき、主人公は恨みや復讐心を超越し、もしくはそうした感情など端からなかったかのように、これを制止する。すると、継母は娘のこころの美しさを認識し、その結果、みずからの罪を認め、二人は和解する。たしかによい話である。だが、一方で、しらゆき姫が示した行為を、あるいはそこから読みとれる価値観を、いまの日本のこどもたちに奨励するのは、少し酷なようにも思える。
最近、選抜高校野球の投手が投げた超スローボールを、元テレビアナウンサーが「世の中をなめた少年になって行きそうな気がする」と批判した。その後、大リーグのダルビッシュ有がそのスローボールを擁護した。この元アナウンサーが高校球児に抱いているらしい若者像(理想像)と、新国立版バレエ『しらゆき姫』に盛り込まれたモラリティには、共通性があるように思える。あの手この手を駆使して勝ち抜く(投手がバッターを打ち取る)/厳しい現実に対処し生き抜くこと(survival)より、いまや子供(若者)らしさの指標ともいえる〝純真さ〟や〝こころの美しさ〟を優先させる価値観だ。超スローボールを投げるのも、現実的な命乞いをするのも、過酷な現実(試合)のなかで生き(勝ち)残るために必要な手段だろう。だが、大人は往々にして子供に、そうした現実(母が子に殺意を抱く等)を見せまいとする。むしろ、現実に対し無防備ともなりかねないナイーヴな行為を称揚するのである。いくら子供に〝こころの美しさ〟や〝純粋さ〟を奨励しても、現実は、ペローやグリムの童話顔負けの残忍な未成年犯罪が後を絶たない。だとすれば、いまの日本社会では、少々ずるく不純に見えようとも、あの手この手で創意工夫し逞しく生きることの価値をこそ、発信すべきなのかも知れない。先のサッカーワールドカップを見ても、その感を強くする。