劇団銅鑼『女三人のシベリア旅行』/虚構の次元について

初日を観た(3月13日 14時/俳優座劇場)。

原作:森まゆみ『女三人のシベリア鉄道
脚本:森まゆみ
演出:野崎美子

美術:佐藤朋有子/照明:鷲崎淳一郎/音響:中嶋直勝/音楽:芳賀一之/衣裳:広野洋子/舞台監督:稲葉対介/音声ガイド:鯨エマ/宣伝美術:山口拓三(Garowa Grapico)/企画:谷田川さほ/制作:小関直人


キャスト
ナレーター:三田直門
森まゆみ:馬渕真希
アリョーナ:タチヤーナ・モクリェツォーワ(フリー)
与謝野晶子:長谷川由里
中條(宮本)百合子/イリーナ:中村真由美
林芙美子/アンナ:佐藤響子
湯浅芳子:渡部不二実
ウラジーミル:鈴木瑞穂(オフィス・ODA/団友)
片山潜:山田昭一
後藤新平:佐藤文雄
トーリャ/ピリニャーク:植木 圭
森章:山形敏之    
リュドミーラ/アリョーナの母:谷田川さほ

現役作家の森まゆみ(馬渕真希)がロシア人学生アリョーナ(タチヤーナ・モクリェツォーワ)とシベリア鉄道に乗り込み、パリを目指す。同名の〝評伝紀行〟を書いた著者自身による脚本。「女三人」とは、与謝野晶子、中條百合子、林芙美子のことらしい。
道中夜になると、まず晶子(長谷川由里)、それから百合子(中村真由美)と湯浅芳子(渡部不二実)のペア、最後に芙美子(佐藤響子)が、コンパートメントで一人になった森の前にそれぞれ姿を現す。明治から昭和にかけてシベリア鉄道に乗った歴史上の女性たちと現代女性との対話である。初めは夢の設定かと思った。が、後に晶子は「夜が明ける前に帰らねば」と言い、森が彼女らの住処を「天国」と述べていたから、どうもそうではないらしい。死者との対話?
以前軍で働いていたウラジーミル(鈴木瑞穂)に森とアリョーナがコンパートメントへ招かれる場面は、最も演劇的な時間だった。高齢の鈴木から台詞が出なくなるのではとの不安も、モクリェツォーワの自然な〝助け船〟が功を奏し、次第にウオトカの酔いが回るにつれ(もちろん演技だが)その場で言葉が紡ぎ出されるような臨場感が溢れた。さすがである。
到着したモスクワとパリで件の四人の女性と当時の関係者らが一堂に会し、森が現在の問題(特定秘密保護法など)も交えて議論する。歴史の当事者が知らない事実を後発者に知らされるときの反応や応答の妙味。時代を超えて死者と対話する。そもそも書き手がとうに死んでいる古い本(古典)を読むこと自体、死者との対話に違いない。この箇所が原作でどう扱われているのか不明だが、批評や評論の活字メディアでは、異なる時代の著者(死者)同士や現代の著者(生者)と過去の著者(死者)との対話などありふれている。演劇の場合、役者の生きた肉体がそこに現前するから独特の面白さが加わるかも知れない。
ただし、舞台で生者と死者が共に登場すれば、それは虚構の位相を超えることになる。この場合、それなりの演劇的手続きを踏まないと観劇体験が平板になるので注意が必要だ。虚構の次元を越境した徴しとして何らかの仕掛けがあれば、観客は共犯者として、別次元の〝虚〟を受け容れることができる*1。残念ながら、今回この点が明確に意識されていたとはいえない。
アリョーナ役のタチヤーナ・モクリェツォーワはとても自然な演技。息子役の山形敏之は台詞回しが自然かつ明快で動きが自在。谷田川さほは何役もこなしたが、怪演の車掌が秀逸。与謝野晶子を演じた長谷川由里は着物共々嵌まっていた。

*1:舞台に死者を登場させた最近の成功例としては、エルフリーデ・イェリネク宮沢章夫 演出『光のない。(プロローグ?)』(2013年11月/芸劇シアターウエスト)やチェルフィッチュの『地面と床』(2013年12月/KAAT)等があり、どちらも能の手法を巧みに用いていた。F/T13 イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)』宮沢章夫 演出/イェリネクへの見事な応答/『想像ラジオ』のエコーも - 劇場文化のフィールドワークチェルフィッチュ『地面と床』/死者と生者、格差と戦争 - 劇場文化のフィールドワーク