三好十郎の『胎内』について

劇場芸術の社会的な意義に関心があり、演劇・オペラ・バレエ等のフィールドワークをせっせと続けている。そこで感じたこと、考えたことを記し、簡便に取り出せるメモランダムとしてブログを開設することにした。

まずは今月初旬、プロト・シアターで観た演劇ユニット「僕たち私たち」による三好十郎の『胎内』について。
出演者は三人とも新国立劇場の演劇研修所4期修了生。旧知の趙くんと今井くんが在所中、二人が出演した試演会はほとんど観ている。昨年3月に修了後、今井くんの舞台を観るのは今回が初めてだ。
公演は予想以上の出来。たしかに三好十郎の世界が現出していた。「人間の本質を追求」しようとするきわめて志の高い公演。思考実験として書いたような戯曲で、けっしてやさしくない本だが、特に第四部の佐山と村子の対話では演劇的な密度が高まり幸福な時空間を味わった。
現世的な利益のためには手段を選ばぬ物欲の花岡は、抜け目のない自信たっぷりの強い男から、出口なしの死に直面すると途端にじたばたする弱い男に変貌するが、雄大はこの変化を見事に演じ分けていた。彼の演技は瞬時に高いフィクション性を現出させ、舞台の背骨を作った。その愛人村子を演じた田嶋真弓はクリアな台詞回しとキレイな脚が身上。二人の男に対する彼女の素直で自然な応答が、それぞれの人物像を対照的に立体化した。インテリの復員兵佐山は難しい役だが、今井聡はよくやった。特に妻を寝取られた社会的弱者としての佐山は、はいずり回る身体性等からよく出ていたと思う。ただ、敗戦を契機に自己を含む日本人すべてを嫌悪している(多分に作者と重なる)心情は、もっと打ち出してもよかったか。たとえば、前半で花岡と村子が下手で絡んだとき、佐山は二人を踏みつけようとして思いとどまる場面。あそこは、もっと汚いものを踏みにじるような殺意の表情がほしかった。それでも、このような作品を舞台化しようという高い志が、今井の演技を以前より大きく豊かにしていたようにも感じた。
壕に閉じ込められ死が不可避となると、社会的かつエロス的な強弱の関係が逆転するところはたいへん興味深い。ラストは、男と女が互いの身体の向こうにそれぞれ別の女や男の存在を視つつ、死にながら生を肯定する台詞を吐く。感動的(隣席のヨメ曰く「ピエタのように見えた」)。花岡はそのとき札を数えていたはずだが、よくわからなかった。
いずれにせよ、ここまで舞台化しえた松森望宏の演出は大したものだと思う。セット(西村有加)は、数本の柱から血管のような赤い線が幾本も地面に伸びていて、胎内=子宮のよう。観客席と舞台が地続きで近かったことも作品享受のうえで効果的だった。これが普通のプロセニアム劇場で観客と距離がある場合はまったく別の演技・演出を必要とするかも知れない。3月9日(金)18:30-21:13