新国立劇場演劇『イロアセル』[フルオーディション4]2021

新国立劇場演劇『イロアセル』を観た(11月12日 金曜 19:00/新国立小劇場)。

作・演出:倉持 裕/美術:中根聡子/照明:杉本公亮/映像:横山 翼/音響:高塩 顕/音楽:田中 馨/衣裳:太田雅公/ヘアメイク:川端富生/振付:小野寺修二/演出助手:川名幸宏/舞台監督:橋本加奈子/出演:伊藤正之 東風万智子 高木 稟 永岡 佑 永田 凜 西ノ園達大 箱田暁史 福原稚菜 山崎清介 山下容莉枝

うーん。匿名の発言がはびこるネット社会をアレゴリカルに描いたようだが、ピンとこない。アクチュアリティが感じられない。俳優は総じて悪くないし(囚人の演技は少し疑問)、発話が色づく仕掛けや架空のスポーツ競技〝カンチェラ〟の動き(振付)など部分的には面白いが、如何せん、それらが作品として収斂してこない。

島の住人が発する言葉には色がつく。傍から見れば綺麗だが、共同体の内部では本音が言えず息苦しい。これは記名での発話を意味するのだろう。ところが、本土から来た囚人と看守のそれは無色。島民も囚人らの前だと言葉は色褪せ(つまり無記名=匿名となり)、話者は自由になる。

島民らは自由な発話を求め、次々に囚人と面会して本音を語る。それを囚人が紙に書き取り、島民がコピーして拡散する。RTのことか。これでカンチェラの競技審査員の買収がバレる。だが、買収で被害を受けたはずの選手がなぜか囚人の指を切り落とし、文字を書けなくする。…買収に関わった会社が崩壊。家々が〝炎上〟し、島民の言葉から色が消える(イロアセル)…。

記名での発話を象徴する島民の方が、色を集める携帯に似た機器を持つ。一方、匿名性の遣り取りを島にもたらした本土の囚人は紙に手書きのローテクさ。なんかちぐはぐだ。わざと? ならばその理由は? 考えさせるため? 何を? 対話やコミュニケーションについて? そんな問題提起や示唆があったか? まったくピンとこなかったし、いまも分からない。身体が演劇的快として反応したのは、看守 伊藤正之と競技審査員 高木稟の遣り取りや会社社長 山崎清介の演技。他にもカンチェラ選手の二人(永田凜・福原稚菜)をはじめ、いい俳優を見る喜びはあった。だからこそ、もったいないと思うのだ。

新国立劇場は、少なくとも国内では最高の舞台芸術が見られる場であってほしい。オペラやバレエはそれが実現できている。そう思う。だか演劇はどうか。フルオーディション企画の4回目に、なぜこの作品を選んだのか。当企画の演目は、これまでチェーホフ/ストッパード『かもめ』(1896/1997)、三好十郎『斬られの仙太』(1934)、宮本研『反応行程』(1958)、そして倉持裕『イロアセル』(1911)。『かもめ』はともかく、他の二作、特に『斬られの仙太』は斬新な演出で作品の面白さを際立たせる優れた舞台だった。今回は、プログラムによれば、本作を芸術監督と制作が倉持氏に提案したという。

じつは鵜山仁演出の本作初演を2011年10月に見ていた。が、正直、まったく覚えていなかったのだ。感想メモは書いていないがプログラムに「音楽のテイストよくない」とだけ走り書きしていた。

劇場側が本作を提案したのはどんな理由なのか。まさか斬新とか実験的などと見なしたわけではないだろう。それはありえない。とすれば、たんに劇場のオリジナル台本で安く上げたかったのか? コロナ禍での減収が遠因? 

演出家としての倉持氏は、シンメルプフェニヒ『昔の女』(新国立劇場/2009)、『現代能楽集Ⅶ 花子について』(世田谷パブリックシアター/2014)、江戸川乱歩原作/倉持氏再構成『お勢登場』(シアタートラム/2017)等を見たきりだが、いずれも今回より面白かったし見応えがあった。本人が自作に限定せず自由に選んでいれば、あるいは『花子について』や『お勢登場』のように自身で古典をアレンジし再構成すれば、まったく異なる公演になっただろう。フルオーディションまでしてこれでは、もったいないと言わざるをえない。