新国立劇場バレエ団「シェイクスピア・ダブルビル」初日&2日目+楽日 2023

シェイクスピア・ダブルビル」の初日、2日目と千穐楽を観た(4月29日 土曜・祝 14:00, 30日 日曜 14:00, 5月6日 土曜 14:00新国立劇場オペラハウス)。

例によって、感想メモをだらだら記す。千穐楽のメモは末尾に】

バレエ団委嘱作品・世界初演マクベス』振付:ウィル・タケット/音楽:ジェラルディン・ミュシャ/編曲・指揮:マーティン・イェーツ/美術・衣裳:コリン・リッチモンド/照明:佐藤 啓/[配役]マクベス:福岡雄大マクベス夫人:米沢 唯/バンクォー:井澤 駿/3人の魔女:奥田花純、五月女遥、廣川みくり/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

音楽は、ウィル・タケットが原作を削ぎ落として作ったシナリオをベースに、マーティン・イエイツがジェラルディン・ミュシャ(1917-2012)による同名組曲(1965)のスコアを分解し発展させてできたという。没頭はベンジャミン・ブリテン(1913-76)《ピーター・グライムズ》(1945)の「四つの海の間奏曲」から「夜明け」を連想したが、終始、不安や緊張を感じさせる音楽。【王の登場を告げるロイヤルファンファーレの三連音符は、後半『夏の夜の夢』の結婚行進曲を予告するようで面白い(マーラー交響曲第5番冒頭の葬送ファンファーレも『夏の夜』の引用か。共にユダヤ系)。】

テーブルやベッドなど最小限の可動式小道具に、舞台奥の黒い背景が長方形に開いたりカーテン状に上がるなどし、その逆光からダンサーがテンポよく登退場して場面転換を繰り返す。このリズム感は原作のスピーディな場面転換によく見合い、かつ『マクベス』を覆う〝闇の世界〟を巧みに表出していた。振付や演出に驚きや意外性はさほどなかったが、洗練されたフレームに『マクベス』の物語が手際よく落とし込まれた印象。

冒頭はマクベス(福岡雄大/奥村康祐)とバンクォー(井澤駿)が魔女ら(奥田花純、五月女遥、廣川みくり/原田舞子、赤井綾乃、根岸祐衣)に遭遇するシーン。マクベスは王になるが、バンクォーは子孫が王になるとの魔女の予言を、言葉のない踊りと動きで表現する。魔女の踊りや動き(振付)は少し綺麗すぎる印象。もっと禍々しさが欲しい気もした。

野心を抱いて帰還したマクベスと夫人(米沢唯/小野絢子)との官能的なpdd。米沢の夫人造形は凄味がある。小野はスタイリッシュで整った造形。

戦勝を祝う王家らの祝宴では、太鼓の響が印象的なルネサンス風の音楽に、王(趙載範)とマクベス夫人らが踊る。マクミラン版『R&J』の「騎士たちの踊り」を想起。

ベッドで眠る王をマクベスが刺し殺すシーンは、逡巡するマクベスとエンカレッジする夫人のやりとりが面白い。殺害と夫婦のエロス的な対幻想をリンクさせた演出(ポランスキーの映画版はどうだったか?)。

マクベスは自分を疑うバンクォーと息子フリーアンス(小野寺雄)に刺客(宇賀大将、小柴富久修、清水裕三郎/中島瑞生、樋口響、渡邊拓朗)を送るも、バンクォーは仕留めたがフリーアンスは逃してしまう。予言を信じるマクベスの不安は解消されず。

マクベス王の宴会でバンクォーの亡霊(井澤)に怯えるマクベスと、それを心配する夫人。米沢は夫と一緒に苦しんでいた? 小野は夫を取り繕っていた? 長いテーブルを巧みに、かつテンポよく動かす演出。マクベスは魔女やダンカン王の息子マルカム側につくマグダフ(中家正博/中島駿野)およびその家族(飯野萌子、谷口奈津、塩田弦大/渡辺与布、岩井夢花、濱田朔)の夢を見、それを夫人に話す(原作にはない【というか、原作では夢ではなく、マクベスが魔女のもとへ赴き、マクダフに気をつけろとの「予言」を聞き出す】)。夫人が立ち会うなか再び刺客を呼び、マクダフ家族の殺害を命じる。マクダフの家族らは【身重の夫人を含め】マクベス夫妻と対照をなす〝家庭的な温かさ〟をよく出していた。

妻と子供らが殺害されたのを知ったマクダフは、苦悶する。子供が遊んでいた玩具を効果的に利用した演出。慟哭を復讐に転化するようマルカム(原健太/上中祐樹)に促されるマクダフ。ここも剣を用いた上手い演出。

罪の意識に苛まれ夢遊病になったマクベス夫人は手についた血を擦り落とそうとする。【夫人の最初のソロと同様、ヴァイオリンがソロで三拍子のメロディを奏する。】原作の演劇版では見せ場だが、米沢も小野も見応えあり。それを見守るお付きの人。マクベスは止めようとするが…。原作ではマクベスがこの場を見ることはない。

なんと自死した夫人とマクベスがpddを踊る。ほぼマクミラン版『ロミ&ジュリ』そのままで少し戸惑ったが、マクミランへのオマージュなのか。これも原作ではありえないが、二人の踊りの見せ場が欲しかったのだろう。ただ、ロミオのように嘆くマクベスの表情には違和感を覚えた。原作では、妻の死を聞いても、恐怖の味を忘れたマクベスが悲しむことはない(「明日また明日…」と独白するとしても)。ここはむしろ、死んだ妻と無表情で踊ればマクベスが被った内的世界が表せるのではないか(ダンサーではなく振付家への不満)。戦場のマクベスとマクダフらの戦い。マクダフに殺されるマクベス。ここで最もこころが動いた。

奥の黒いカーテンは上がり、勝った軍勢が前に進み出るなかマクダフがマクベスの首を掲げ、マルカムに王冠を授ける。背後から死んだマクベスマクベス夫人が勝ち誇ったように進み出て、幕。 

福岡は軍人らしい造形。奥村は軍人らしさは乏しいが王殺害以降の内的不安は出ていた。中家はマクダフのタイプだが、中島はあまりそうは見えず。

全体的に物語の外形はよく捉えた舞台といえるが、そこから何を表現したいのか、いまひとつはっきりしなかった。洗練されたスタイリッシュな演出と、シェイクスピアが描こうとした『マクベス』の、特に主人公が辿った内的世界がどう噛み合うのか。楽日にもう一度みて、確かめたい。

『夏の夜の夢』(原題は『夢』)振付:フレデリック・アシュトン/音楽:フェリックス・メンデルスゾーン/編曲:ジョン・ランチベリー/美術・衣裳:デヴィッド・ウォーカー/照明:ジョン・B・リード/[配役]ティターニア:柴山紗帆/オーベロン:渡邊峻郁/パック:山田悠貴/ボトム:木下嘉人/指揮:マーティン・イェーツ/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団/合唱:東京少年少女合唱隊

こちらはごく簡単に。

初日はボトムの木下嘉人とパックの山田悠貴にブラボー! 2日目はパックの石山蓮とボトムの福田圭吾にブラボー! 速水渉悟は王らしくてよかった。

本当は米沢唯と小野綾子のティターニアを見たかった。バレエ団は二人の後継者が育っていない。速水は一回でも多く米沢と組まなければいけない。彼は確かに技術的には申し分ないが、ただ上手く踊るだけでは芸術とはいえない。そこに身体(技術)を超える何かが現出しなければ。そのことだけを目指しているとも言える米沢と組めば、速水はさらに成長できる。もうあまり時間がない。いろいろ事情はあると思うけど、吉田都さん、ぜひお願いします

千穐楽のメモ】二階左バルコニー壁側から(キャストは初日と同じ)。

宴席の場でバンクォーの亡霊(井澤駿)に怯える福岡マクベス。亡霊は見えない米沢マクベス夫人は、「一緒に苦しんでいた」というより、ただただ心配し不安になっているように見えた。

その後の寝室の場では、夫はどうしてしまったの、と両手で顔を覆う夫人。…マクベスの夢(【そうは見えなかったが魔女の予言から】マクダフの家族を刺客に殺させる等)の中身を聞いたあと、夢の通り、マクダフの家族を襲わせるべく、刺客を侍女に呼ばせたのは夫人の方だった。

夢遊病の場は米沢の鬼気迫る迫真の演技に痺れた。夢のなかにいるマクベス夫人は、血に汚れた手の染みを擦り落とす仕草を見せたかと思えば、王やマクダフの家族らを殺させた罪の報いからだろう、奈落の底に引き摺り込まれる恐怖に苛まれ、その場に寄り添う夫にも気づかない。気づいたかに見える後半では、地獄堕ちから(天へ)救い上げるよう訴えているかに見えた。まるで『マノン』沼地のパ・ド・ドゥのよう。

夫人はカミテの出口で、狂気にしか見えない不気味さで振り返り、退場する。

このあと、マクベスがソロを踊る。これが原作の「明日、また明日…」の独白に相当するのだろう。ただ、シェイクスピアは夫人の死の知らせの直後にこの独白を置いているが、タケット版ではマクベスのソロ(独白)が終わると夫人の死体が運び込まれ、マクミラン張りのパ・ド・ドゥを踊る。そのため、ソロダンスの意味づけが中途半間になったといえないか。つまり、妻の死を契機にみずからの人生を絶望的に振り返るのではなく、妻の心の病(夢遊病)を目の当たりにし、嘆くというように。夫人の死と夢遊病ではソロ(独白)の契機として、重みが決定的に異なる。仮に原作通り、妻の死のあとマクベスがソロを踊れば、ややスピーディ過ぎのきらいもある舞台運びに重要なアクセント(間)をつけられたかもしれないし、その踊りから、魔女の予言と妻に促され、というか、妻を喜ばせるためにこそ一線を越えて王を殺し王冠を手にしたはずのタイトルロールの内面が、表出されたかもしれない。もちろんこの場合、死者とのパ・ド・ドゥは無くなるし、もはや〝大人のバレエ〟とはまったく別物になっただろう。それも、恐ろしい境地を表象しうるソロの振付が創作できればの話しだが。

死んだ妻とのパ・ド・ドゥで、マクベス(福岡)は当初は嘆きの表情だが、次第に、もういい分かったと腹を決めたようなニュアンスが感じられた。

マクベス夫人の最初のソロは三拍子のヴァイオリンソロ。原作ではマクベスからの手紙で魔女の予言をすでに知っているが、タケット版ではまだ知らない設定なのだろう。夢遊病の場では、フルートとチェロのソロに導かれ、先の三拍子のメロディーがやはりヴァイオリンソロで奏される。

ウィル・タケットは、本作を見る限り、演出の力量の方が振付のそれより優っているように感じた。