こどものためのバレエ劇場『人魚姫〜ある少女の物語〜』の全キャストを見た(7月27日 土 13:00,29日 月 16:30,30日 火 13:00/新国立劇場オペラハウス)。
当初は初日と29日ソワレの2キャスト予定が、井澤の蛸(深海の女王)も見たくなり、30日マチネを追加。以下は、7/29にツイートした初日の感想メモに加筆修正したもの。
振付:貝川鐵夫/音楽:C.ドビュッシー、J.マスネ ほか/美術:川口直次/衣裳:植田和子/照明:川口雅弘/音響:仲田竜太
+[サウンドトラック]指揮:冨田実里/管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ドビュッシー《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》ハープ:吉野直子 モーツァルト《ピアノ協奏曲第22番》第3楽章 ピアノ:三輪 郁 マスネ《タイスの瞑想曲》ヴァイオリン:三浦章宏 サティ《ジムノペディ第1番》、メンデルスゾーン《無言歌集》から「春の歌」、「信頼」ピアノ:飯野珠美
主催:公益財団法人新国立劇場運営財団、独立行政法人日本芸術文化振興会、文化庁/制作:新国立劇場/委託:令和6年度日本博 2.0 事業(委託型)/後援:渋谷区教育委員会/東京都公立小学校長会/東京私立初等学校協会/特別協賛:京王電鉄株式会社/株式会社 タカラトミー/協賛:株式会社 小学館/コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社/三菱重工機械システム株式会社
バレエ団で育った貝川鐵夫の全幕振付公演を見る。なんか嬉しい。舞台が客席との交流なしには完結しないものだとすれば、この感慨は劇場文化に特有かもしれない。ビントレー発案の、団員から振付家を育てる「Choreographic Group」の初回公演(DANCE to the Future)は2012年。もう12年経っていた。今回の公演はビントレーも喜んでいるだろう。
音楽好きの貝川氏が「子どものためのバレエ」に〝通ぶらず〟曲を選んでいる。そこが彼らしい。トランジションの演出など工夫の余地はあるが、今後もどんどん創ってほしい。このあと2回目を見るが、以下はとりあえずのメモ(に2回目・3回目の感想から加筆修正)。
[27日マチネ]人魚姫:米沢 唯(体調不良のため降板)→廣川みくり/王子:速水渉悟/深海の女王:奥村康祐/婚約者:渡辺与布
第1幕は嵐の音で幕が開き、いきなり海の底。音楽はドビュッシーの《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》だが、深海の女王の場を除きやや変化に乏しい。→と初日は感じたが、2回目は思ったよりずっと変化に富んでいて、楽しめた。例えば、人魚姫が海底まで差し込んでくる陽光に手を差し伸べる踊り(ここは柴山がいい)は、姫の海上(陸上=人間界)への憧れを見事に表出している。ビントレーの『アラジン』(洞窟シーン)へのオマージュか*1(初日も見ているはずなのに、やはり一回だけだと見逃してしまう)。
…サティの《ジムノペディ》で溺れた王子速水が深海魚たちにリフトされて海底に沈み、それを好奇心旺盛の人魚姫廣川が助けて陸上へ。この音楽はドビュッシー《前奏曲集》から「亜麻色の髪の乙女」のオケ版。(王子が溺れて海底に沈む前、そして姫が王子を助けて陸に上げる、その過程を演出でさらに暗示できれば、より劇的効果が高まりそう。(→初日にそう感じたのは、冒頭の嵐の音が小さすぎたせいだろう。2回目では、開演前から波の音が聞こえ、さらに冒頭の嵐の効果音も大きくなり、その後の王子が深海に沈んでくるシークエンスにリアリティが増した。)
その後、王子との再会を熱望する人魚姫は深海の女王を訪ね、人間の足を懇願する。女王はアシュトンの義姉を髣髴させる蛸のトラヴェスティでグリンカの《幻想的ワルツ》を豪快に踊る。原作の魔女を想起させる〝化け物性〟を奥村が怪演し爆笑。表情豊かな踊りとマイムが嵌まっている。仲村の女王は大胆かつ伸びやかな踊り・マイムで魅せた。井澤はもっと食み出してもよいか。人魚姫が声と引き換えに足を得るシーンも初日は少し分かりにくかったが、2回目以降はそうでもない(改訂の余地はあるかもしれない)。
王子と結ばれないとき使うナイフを人魚姫に渡し忘れた女王の「しまった!」この表情と動きが最高。慌てて姫を追いかける深海の女王(原作ではありえないが、女王の2幕登場が可能になる)。
助かった王子と婚約者(渡辺与布/木村優子)、貴族らが海辺で踊るのはモーツァルト《ピアノ協奏曲第22番》。貴族や王子らに相応しい、さすがの選曲。第3楽章アレグロで貴族らが踊り、再会の2人は同じくアンダンティーノ・カンタービレで。手に触れるのさえ羞じらう廣川が速水にリフトされた至福感。グッとくるパ・ド・ドゥだ。
ソロはまず姫がメンデルスゾーン《無言歌集》から「春の歌」で初々しい喜びの踊り、王子は同じく「信頼」で誠実かつ気品のある踊り。初日はモーツァルトから「無言歌」への移行に少し違和感を覚えた(古典派の緊密さがロマン派で弛緩したような)が、2回目は気にならず。
戻った貴族らが又アレグロで、サティのワルツ《ジュ・トゥ・ヴー》オケ版で踊る。夜空にはキラキラ星、それが降ってくる…。
第2幕の街の場は一転グリンカやロッシーニのウキウキ音楽。レモンとオレンジの場(音楽はヴェルディの2作目オペラ《一日だけの王様》序曲らしい)は、原作では人魚姫が修道院の庭で見たにすぎない果物の木を、どちらが美味いかの言い争いにうまくアレンジした。そこへ人間の少女になった人魚姫が紛れ込み…。
その後、ちょび髭ズボン役の可愛い新聞記者に扮した池田、飯野、奥田→五月女(奥田、五月女、直塚)が《ルスランとリュドミラ》序曲で踊り、王子の結婚を公表する。
《泥棒かささぎ》序曲の小太鼓が祝典を告げ、王子らはロッシーニ・クレッシェンドで踊る。このあたり、速水は真面目な王子で通したが、中島は音楽の喜劇性を滲ませる。渡邊は中庸。
王子の結婚を知り、困惑する少女(人魚姫)…王子や貴族らの輪舞が輪外の人魚姫と内側の王子のやりとりを疎外する。うまい振付。ナイフを渡し忘れた深海の女王が人魚姫を見つけ、見事なマイムで「王子と結ばれぬなら彼を刺せ、さもないと姫が死ぬ」と改めてナイフを差し出すも、受け取らない人魚姫。
…街のセットが崩れるように消えて海底に。マスネ《タイスの瞑想曲》で人魚姫がソロを踊り、幻の王子とパ・ド・ドゥを踊る。初日の廣川は片足ずつ引き摺るように速水の方へ近づき、思いの強さを表出する。海辺のPDDとのコントラストが素晴らしい。やがて幻は消え、人魚姫一人、そして消える。命と引き換えるほどの愛。
《タイス》は三浦章宏の録音らしい。情緒を排した美しい演奏は廣川の強度と見合っていた。米沢の降板は大変残念だが、廣川の踊りに納得。役を生きることができるし、踊りに詩情がある(芸監もそうだった)。速水は柴山と組む時より〝気〟が入る。
コミカルな要素が随所に盛り込まれた楽しい「こどもバレエ」だが、幕切れの「少女」の死は、こどもたちに強い印象を与えるだろう。人魚姫は自分の生命より、愛する王子の仕合わせを優先させて、泡と消える。アンデルセン原作の肝といえるキリスト教的「不死の魂」が、貝川版では、相手を生かす「愛」となり、その尊さが、こどもたちへのメッセージになった。
親しみやすい音楽の採用は「こどものためのバレエ劇場」に相応しい。かつての「こどもバレエ」『白雪姫』のようにナレーションやセリフに頼らず、バレエならではのマイムが多用されている点も好かった。同じマイムが繰り返されるため、こどもも理解できるだろう。物語バレエのマイムは、オペラのレチタティーヴォに似ている。アリアや重唱(アンサンブル)だけでは物語が進まない。今回、特に深海の女王を踊った奥村、仲村、井澤らの美しいマイムは、それが踊りの一部であることを示してくれた。
最後に一言。ビントレーの「Choreographic Group」プロジェクトはダンサーたちの未来(DANCE to the Future)を見据えたものだが、その先には、「日本人振付家作品を上演する、真の意味での日本のバレエ団を樹立しようとするヴィジョン」が見えてくる。このヴィジョンを共有する人が少しでも増えてほしい。ヴィジョンの実現は簡単ではないが、まず「日本人は創作の追随者であって、その主導者ではないという誤った考え」*2を改めなければならない。
新国立劇場バレエ団(New National Ballet of Japan)が改訂版『人魚姫』を生演奏で再演することを切に願っている。
*1:舞台から読み取れる〝インターテクスト〟は興味深い。たとえば、ビントレー『パゴダの王子』深海→深海魚/『アラジン』洞窟に差し込む明かり→海上世界へのあこがれ/アシュトン『シンデレラ』義姉のトラヴェスティ→深海の女王(蛸)のトラヴェスティ/マクミラン『マノン』デ・グリュー挨拶のソロ→王子のソロ/『ラ・ボエーム』ミミとロドルフォの相互自己紹介アリア→海辺のPDDのヴァリエーション/プティ『コッペリア』コール・ド(隊列)→結婚の場等、『こうもり』ちょび髭のウルリヒ→新聞記者のズボン役3人/エイフマン『アンナ・カレーリナ』社交界でのアンナとヴロンスキーの疎外感→レモンとオレンジの場の人魚姫のよそ者性…。貝川氏は先人から学んだ様々な趣向や舞踊語彙を消化吸収し、それを巧みに練り直して独自のバレエ作品を創り上げた。
*2:どちらの出典も Kenji Usui, International Dictionary of Ballet, Vol. 2, Martha Bremser ed., St James Press, 1993