新国立劇場バレエ『パゴダの王子』再演/ビントレー芸術監督の最後の舞台

『パゴダの王子』再演の全3キャストに加え、ビントレー芸術監督の最後となる楽日を観た(6月12日19時・14日14時・19時・15日14時/新国立劇場オペラハウス)。
ビントレーがこのバレエ団に振り付け初演したのが2011年。あれから三年か。以下、だらだらと感想メモを記す。

芸術監督:デヴィッド・ビントレー
音楽:ベンジャミン・ブリテン
振付:デヴィッド・ビントレー
装置・衣裳:レイ・スミス
照明:沢田祐二
所作指導:津村禮次郎
指揮:ポール・マーフィー
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団


さくら姫 : 小野絢子(12日・15日)/米沢 唯(13日・14日夜)/奥田花純(14日昼)
王子:福岡雄大(12日・15日)/菅野英男(13日・14日夜)/奥村康祐(14日昼)
皇后エピーヌ :湯川麻美子(12日・15日)/本島美和(13日・14日夜)/長田佳世(14日昼)
皇帝:山本隆之(12日・14日昼・15日)/マイレン・トレウバエフ(13日・14日夜)
北の王:八幡顕光(12日・15日)/福田圭吾(13日・14日夜)/江本 拓(14日昼)
東の王:古川和則(12日・14日昼・15日)/輪島拓也(13日・14日夜)
西の王:マイレン・トレウバエフ(12日・14日昼・15日)/小口邦明(13日・14日夜)
南の王:貝川鐵夫(12日・14日昼・15日)/宝満直也(13日・14日夜)
道化 :福田圭吾(12日・14日昼・15日)/高橋一輝(13日・14日夜)
宮廷官吏:小笠原一真(12日・14日昼・15日)/貝川鐵夫(13日・14日夜)
妖怪:野崎哲也 小野寺 雄 八木 進 横山 翼 高橋一輝(12日・14日昼・15日) 佐野和輝(13日・14日夜)
タツノオトシゴ:江本 拓(12日・15日) 八幡顕光(13日・14日昼夜) 小口邦明 小野寺雄(12日・14日昼・15日)奥村康祐 野崎哲也(13日・14日夜) 福田紘也
深海:小柴富久修 林田翔平(12日・14日昼・15日) 清水裕三郎 池田武志(13日・14日夜)
:奥田花純(12日・15日) 五月女 遥(13日・14日昼夜) 大和雅美 盆子原美奈 益田裕子
バリの女達:さいとう美帆 毛利実沙子 石山紗央理(12日・14日昼夜) 長田佳世(13日・15日) 五月女 遥(12日・15日) 柴田知世(13日・14日昼夜)

子供時代のさくら姫:池田彩恵(東京シティーバレエ団付属バレエ学校)(12日・14日昼・15日)/小川愛瑠(日本ジュニアバレヱ)(13日・14日夜)
子供時代の王子:大石 龍(谷核子バレエ団研究所)(12日・14日昼・15日)/栗山直弥(日本ジュニアバレヱ)(13日・14日夜)
小さなサラマンダー:山本恭雅(日本ジュニアバレヱ)


まずは初日。直前に〝野暮用〟で人と会ったせいか、それとも初日の舞台に硬さがあったのか第1幕はあまり集中できず。開演前、カーテンの隙間から道化(福田圭吾)が顔を出し、ピットの前で客席との交流を作り出す。そういえば初演時は吉本泰久がベテランの味を出し、めちゃくちゃ受けていた。福田も場数を踏めばもっとよくなるだろう。皇帝は山本隆之か。ちょっと感慨深い。4人の王は、まだ調子に乗り切れていない感じ。それでも音楽は素晴らしい。東の王のミュート付きホルンは、阿片窟の気だるく妖しい空気を醸し出す。南の王の踊りでは、トロンボーンの低音とティンパニーの連打に導かれてホルンが咆哮すると、アフリカ象が一斉に走り出すさまが見えるようだった。第2幕のジャーニーは実に楽しい。セットと衣裳の素晴らしさを再確認した。雲、星、泡のコール・ド。タツノオトシゴが飛び跳ねながら登場すると空気が和む。弦のピチカートとミュート付きトランペットのリズミカルな音楽に合わせた踊りは『ペンギンカフェ』のノミ(?)のよう。彼らを見つめるさくら姫(小野絢子)の嬉しそうな表情が実にいい。妖怪が現れて姫を導くシークエンスは、木管、特にクラリネットによる高音のフレーズが印象的。クランコ版では蛙の動きを模したらしい音楽が、歌川国芳ばりのかわいい妖怪に驚くほどぴったりだ。ヴィブラフォンやシンバル等のパーカッションの打音を合図にガムランの音楽が鳴り響き、パゴダの地が現れる。赤い花(ハイビスカス?)とバリの女たち、そしてサラマンダー。王子が過去の経緯を語るシーンでは、子供時代の王子と姫とのミラーダンス。白い着物姿のエピーヌは怖い。初演時同様、マクベス夫人が寝間着姿で王殺害の場面を反復する夢遊病のシーンを想起(安土桃山時代に設定した「ニナガワ・マクベス」では、エピーヌのような、白い着物姿だった気がする)。単純な悪の造形に終わらず、人間の業の深さを描いたのはさすが(シェイクスピアへのオマージュか)。「兄の運命のおぞましい真実」を知ったさくら姫は、引き剥がされた兄の白い着物を胸に抱きしめ、宮廷へ帰っていく。第3幕。PDDはホルンとピアノだったか。ラストのワルツではハープがきれい。音楽は『眠り』やプロコフィエフの『シンデレラ』も想起させる。初日(特に第1幕)は作品の全貌を十全に立ち上げえたとはいえないが、振付と美術が音楽の素晴らしさを引き立てていた。初演時は日本のキモノ(袴)姿でバレエを踊ること自体に感動を覚えたが、今回も和服のしなやかで美しいシルエットが現出すると、うれしい気持ちになった。
14日(土)14時 奥田花純・奥村康祐組の回は3階左バルコニーから見た。奥田=さくら姫は度胸がいい。身体がよく動き、よく踊る。好演したといってよい。第1幕のソロなどはもう少し叙情性が欲しいが、それは今後に期待したい。奥村=王子/サラマンダーの美点は元気がよいこと。あとは、相手役へのサポートの安定性と3幕の棒術などで様式性が出せるとよい。長田佳世のエピーヌは、踊りはメリハリがあり本格的だが、継母(悪女)として他人を踏みにじる残忍さはいまひとつ。このダンサーの美点である人のよさがにじみ出る。ただし、第2幕の昔語りでは、義理の息子をトカゲに変えた後、罪の意識が垣間見えたのは興味深い。北の王を踊った江本拓は、踊りのスタイルがきちんとしていて見応えがあった。
14日(土)19時 米沢唯・菅野英男組の回はやや詳しくメモする。高橋一輝の道化は、人の物まねをせず、自分を失わないで造形した点に可能性を感じる。第1幕。4人の王の踊りは新鮮。さくら姫はオーボエの悲しいメロディに合わせてソロを踊るが、米沢は姫の寄る辺ない心境を見事に表出。照明が落とされ、姫以外はストップモーションとなり、〝死んだ〟兄(菅野)と幸せなパ・ド・ドゥを踊る。もちろんこれは現実ではなく姫の内面での出来事(幻想)だろう。そのあと、呆然とする姫に王たちが求婚すべく次々に寄ってくる。姫は我に返り、戸惑いながらも丁寧に返礼する。米沢の、さり気ないが生きられた応答は、王(に扮する4人のダンサー)たちに次々と息を吹き込んでいく。ちょうどサッカーの日本代表チームが細かなパス交換でリズムを作り出すように(残念ながら翌日のコートジヴォワール戦ではほとんど見られなかった)、さくら姫と王たちとの何気ないやりとりから見る見るうちにドラマが立ち上がっていった。そこに打算的な継母エピーヌが介在すると、姫の戸惑いは王たちへの嫌悪に、やがて断固たる拒絶に変わる。その後サラマンダー(とかげ)が現れ、さくら姫と対面するが、この両者のやり取りは見応えがあった。菅野=サラマンダー(実は兄)は妹の姫に対し、さかんに気を発する。すると米沢=姫は、気味の悪さと同時に懐かしさのような何かを感じ取るのだ。さくら姫とサラマンダーとの〝対話〟から、姫のそうしたambivalentな心のありようが見事に表出されていた。姫は、こんなに辛い現実世界に身を置くよりも、姿形は変だがどことなく親和性を感じるサラマンダーに身を委ねた方がましと考え、皇帝に相談後、サラマンダーと共に宮廷から去る。本島=エピーヌは(踊りは高性能とはいえないが)うわべだけを取り繕う妻の在り方をよく造形していた。それから米沢のお辞儀の美しさが印象的。

第2幕の前半は、さくら姫がサラマンダーの従者である妖怪たちに導かれ、地・水・火・風(空)の四つの元素をくぐり抜けるテスト(試練)の場。[四元素を通しての試練といえば、モーツァルトの『魔笛』が浮かぶ。第2幕の後半で、鎧を着た2人の男はこう歌う、「苦難に満ちてこの道をさすらい来るものは、/火、水、大気、そして大地によって浄められる」(海老沢敏訳)。この場で試練を受けるのはタミーノとパミーナの男女二人だが、台本を書いた俳優兼興行師のシカネーダーはタミーノを日本の王子に設定しているから面白い。]試練といっても、さくら姫は自然の世界を楽しんでいる。タツノオトシゴとの邂逅では、その踊りを嬉しそうに真似ていた(これは米沢だけか)。ここでの姫の喜びの強度は、宮廷での彼女の不幸と比例しているように感じた。それだけ、1幕のソロが辛い現在を表出していたからだろう。深海の生物は、初演時は黒っぽい衣裳の魚(?)だったが、今回はベージュ色の毛ガニ(?)に変わっている。タコのコスチュームに身を包んだエピーヌとリフトを多用した三つ巴の踊り(このサポートは少々危ういが、どのエピーヌも物ともせずに踊りきった)。エピーヌのみならず4人の王の化身まで加わる真っ赤な炎の洗礼は、メラメラと燃えあがる炎を彷彿させるトランペットのグリッサンドで激しさを極める。姫の恐怖もそれだけ増大した。自然の諸力にエピーヌや4人の王たちの幻影が混じるのは、彼らと戦う覚悟の程を試すためだろう。やがてさくら姫は、暗黒の地に投げ出される(クランコの台本では三元素だったのを四元素に変更したのはこの「地」も試練の場にカウントしたからか)。
三浦章宏の秀逸なヴァイオリン・ソロに導かれた米沢の踊りは絶望と孤独の深さを滲ませた。すると突然、金属音が鳴り、真っ赤な花とバリの女たちが現れ、暗闇の地がパゴダの地に変容する。ヴァイオリンのソロからガムランの音楽への移行。姫とサラマンダーとの再会。そして、バリの女たちとの踊り。ここで米沢は、たんに振付を踊るというより、サラマンダーのトカゲ踊りを面白がって真似するように踊る。このとき姫はサラマンダーの正体を認識していないはずだが、身体はこのトカゲを兄だと分かっている。そう感じた。いわば〝身体知〟だ。米沢が菅野=サラマンダーやバリの女たちと共振するように踊るさまは、実に幸せそう。人間はまず模倣(ミメーシス)によって学ぶといったのはアリストテレスだが(『詩学』)、相手の動きを真似る行為は、理解し共感するためのもっとも有効な手段である*1。さくら姫が目隠しすると王子が現れる場面では、思わずグッときた。ここで感情が湧出したのは、ダンサーたちがたんに覚えた振付を上手に反復しようなどとは考えず、その場で相手と気を交感(つまり対話)しながら役を生きてきたからだ。そして例の語りの場。この場面は何度見ても素晴らしい。ハープの伴奏にイングリッシュホルンのノスタルジックなメロディで一気に時間が遡り、二人の子供時代が現出する。幼いさくら姫は桜の枝を集めている。そこへ、元気のよい王子が駆け寄って来る。この日の王子はやや大きめ(4人の絡みで両王子がぶつかったが問題ない)。皇后エピーヌが義理の息子をトカゲに変えるシークエンスは、他日より両者の距離が離れていたが、何のその、本島はものすごい勢いで魔法をかけた。圧倒的な迫力。彼女も反復などしていない。元々ここは姫と王子の(男女の)パ・ド・ドゥだったのを、ビントレーは、兄妹の幼少期を追想する語りに変えた。素晴らしい着想。
第3幕。北斎の赤富士をイメージしたらしい白い富士山の頂上に項垂れて座り込む皇帝。皇后エピーヌが好き勝手をしている宮廷。戻ってきたさくら姫は憔悴した皇帝の頭を抱きしめると、父への情愛が滲み出る。サラマンダーから例の子供王子の白いキモノを受け取り、過去の真実を突きつける。逃げ場を失ったエピーヌは臆面もなく女として夫(皇帝)にしなだれかかる。このときの本島美和は悪女の業と同時に、ある種の哀れさを見事に表出した。しびれるほどのリアリティ(ビントレーはエピーヌをここまで描き込んでいた)。パゴダ人、バリの女たち、そして緑の旗(サラマンダーの色と合わせたのか)を持った妖怪らがリラの精のように駆けつけ、悪女エピーヌ追放に力を貸す。やがて、王子が戻ってきて、3人の家族の再会を果たす。ここでサラマンダーを描いた幕が下り、新宮廷の女性貴族らが桜色の傘を持ち、幕前で踊る。再び幕が上がると、大きな桜の花が飾られた新しい宮廷に生まれ変わる。奥には富士山と日の丸を思わせる赤い太陽。さくら姫と王子とのパ・ド・ドゥはふっくら感のある兄妹の踊り。そこへ、4人の王たちが乱入し、王子と戦いに。さくら姫と回復した皇帝も加わり、棒術の日本的な様式性で、飛び道具を有する〝夷狄〟を打ち負かす。初演時にビントレーの日本へのオマージュを感じた部分だが、今回も変わらない。
楽日。第1幕。道化は初日より工夫がある。サッカーワールドカップの日本戦の号外を丸めて蹴ったり。四人の王も気合いが入っている。特に八幡顕光。エピーヌの湯川は何度見ても豪快で、スケールが大きい。小野のさくら姫はきめ細やかな踊りで、かたちがよい。ただし、ソロで姫は何を思うのか。その後の王たちやエピーヌとのからみでは、外形的な動きは明確で美しいといってもよいが、内側からドラマが生まれるわけでは必ずしもない。サラマンダー(福岡)が妖怪を伴って登場し、姫と邂逅する・・・。すべて、踊りのかたちはよく整っているが、内的な肉付けにはさほど頓着せず、さくさくとドラマが進行する感じ。姫が無力な皇帝(山本)の元へ〝相談〟しに駆け寄った後、サラマンダーと立ち去る場面について。トレウバエウ(皇帝)と米沢(姫)の場合、「変な国の王との縁談を継母の欲得で強要されるこんな宮廷に居るよりも、気味は悪いがどことなく親しみを感じるサラマンダーについて行きたいのだけど、お父さん、いいですか?」「分かった。お前の好きなようにしなさい。私はお前のことを信じているよ・・」とでも言っているように感じた。だが、山本=皇帝と小野=姫のやりとりを見ていると、「あたし、これ以上こんな所に留まりたくないので、サラマンダーと一緒に出て行きます。お父さん、許してね」「そんな、お前、じゃあ、私はどうなるのだ・・・」と皇帝は嘆いているふうだった。とすると、あれは相談ではなかったのか。
第2幕。小野の踊りはキレもあり大変よいのだが、ドラマのなかでその振付がどんな意味をもつのか、必ずしも明確化されない。たとえば、炎の場面では、試練(テスト)を受けるというより、赤い服のダンサーたちにキレで負けまいと踊っているようにも見える。暗闇のソロでも孤独感や絶望感とは異なるあり方。パゴダの地で、バリの女たちやサラマンダーと踊るさいも、いきなり全開で、誰よりも振付を十全に実現しようというふうに見えた。福岡雄大のサラマンダーはとかげ動きがとても巧みで素晴らしい。いずれにせよ、この二人のあり方は、内側からドラマを生きるというよりも、舞台に立つ者はあまり余計なことはせず、ひたすら踊りに専念すればよい。あとは才能豊かなアーティストらが作り上げた振付・演出・美術等から、おのずとドラマは立ち上がる。そんな構えなのかも知れない。
第3幕。姫に過去の真実を突きつけられ、八方ふさがりの湯川=エピーヌは、夫(皇帝)にすがりつくが、本島ほど女を出さない。そんな妻(エピーヌ)を皇帝(山本)は、冷淡にかつ素っ気なく拒否する。悪女エピーヌ皇后の撃退後、さくら姫と王子のパ・ド・ドゥ。襲ってくる四人の王に家族三人で応戦。福岡は牛若丸スタイルでの棒術のさばきも様式的でとてもよい。山本は、アルトサックスが暗示するペーソス溢れるしょぼくれ爺さんより、王子と同系の朱色の装束を着た立派な皇帝の方が似合っている。その後の、主役二人のヴァリエーション、コーダの踊りはかなり質が高く、観客はバレエの醍醐味を満喫しただろう。(寺田亜沙子は主要な役ではなかったが、その溌剌とした踊りが何度も目に付いた。次シーズンが楽しみだ。初演時の照明は特にダンサーの足下が暗く、見にくいと感じる場面がいくつかあったが、今回は改善されていた。)
ブリテンの音楽には森林浴に似た効能があるのか。聴きながら酸素を豊富に吸入したような錯覚をおぼえた。ビントレーの振付は、すべて、音楽を聞き込みスコアを深く理解したうえで創り出されている。ブリテンがビントレー版を見たら満足したのではないか。音楽を出汁にして自分の振付言語を際立たせるようなスタンスとは無縁。ドラマの構成や演出もダンスの動きも美術や衣裳もすべて音楽のよさが最大限に生きるよう配慮されている。間違っても振付・演出・美術が音楽から浮き上がって自己主張することはない。そこに、芸術家ビントレーの〝よさ〟(goodness)を私は感じる。アーティストにgoodnessは必要ないと考える向きには、〝いき〟と言いかえてもよい。この点が、ビントレー作品の真価を評価する分かれ道かも知れない。
東フィルはよく健闘したと思う。ただし、バンダのトランペットは、特に弱音で歯切れが悪くなる。〝連投〟で疲れが出ることは理解できるが、ヴァイオリンのフライングや開放弦のノイズ等はやはりない方がよい。
一通りカーテンコールが終わり、再び開くと、小野絢子が下手へビントレー監督を呼びにいく。すると、上手から妖怪たちが深紅の薔薇の大きな花束を後ろ手に隠し持って登場。舞台には、いつの間にか別の日に出演したダンサーたちが私服姿で勢揃いしている。小野が妖怪から花束を受け取ると、それをビントレーへ渡す。ダンサーたち全員が拍手をし、ビントレーに感謝の意を表しているのが分かる。客席も、ビントレー登場の直後から、立ち上がる人が続々(もちろん私も真っ先にスタンディング)。ビントレーは出てきた端から感無量の表情(初演時の初日もそうだった)。そして、客席に、またダンサーたちに、丁寧なお辞儀を繰り返した。三回目のコールだったか、ビントレーは微笑みながら「時間が・・・」といわんばかりに腕時計を指し示す。このあと、映像上映やエンディングパーティなど、予定が詰まっていたのだ。だが、拍手は鳴りやまず、四回目にはほぼ全部がスタンディングしていた。ビントレーは、その度にピットに近寄り、胸に手を当て、客席に向けて拍手をした。
ビントレー監督の最後なので、久し振りにシーズンのエンディングパーティに出席した(フォワイエ)。詳細は略すが、ビントレーは観客のあのような反応はまったく予想しなかったとのこと。また、自分は芸術監督として教えに来たことになっているが、実際は、それ以上に、ダンサーたちや、観客や、日本の文化等から、教えられた・・・云々。その後、ダンサーも登壇し、挨拶をしたが、涙声でビントレーへの感謝を述べた湯川さんが印象的。ビントレー監督が就任後、彼女はほんとうに生き返り、以前とは見違えるほどだった。ダンサーのよさを認め、評価し、その個性を生かすべく、適材適所にキャスティングする。この当たり前のことがどれだけ大切でまた困難か。ビントレー芸術監督の仕事の底流には、つねに、ダンサーへの深い愛情がみてとれた。それで想い出したが、ビントレーが新国立に『アラジン』を振り付けたとき(2008年だから監督に就任する前)たまたま、新宿駅のホームで初台への電車を待っているビントレーに遭遇した。彼は妻と息子と一緒だった。そこで、『アラジン』の舞台から新国立ダンサーたちへの深い愛情をひしひしと感じる旨を伝え、サブスクライバーとして、彼にお礼を言ったのだ。その後、監督に就任して以降、彼の作品の上演時(特にトリプルビル)はいつも空席が目立ち、申し訳ないような気持ちだった。だが、今回のスタンディングオベーションに立ち会えて、正直ほっとした。
それにしても、楽日のスタンディング・オベーションは、この劇場ではめったにお目にかかれない光景だった(オペラの芸術監督を務めたノヴォラツスキーの退任時は、指揮者のエッティンガーがステージ上で東フィルに合図してラデッキー行進曲を演奏した。あのときもブラボーがかなり飛んだが、ここまでスタンディングにはならなかったように記憶する)。劇場はあの様子を撮影しているはずだが、なぜその写真を劇場のホームページに掲載しないのだろう。とても不思議。

*1:竹内敏晴が「レッスン」で実践していたのもこれではないか。竹内は、悩みを抱えた参加者の〝問題〟を理解するため、まず、その声の出し方やしぐさを真似してみる。そのとき「相手のからだから自分(竹内)のからだに移ってくる、からだの内での身動きとそのとどこおりのようなものを感じ取りながら、触れ合っていく」。内側で目覚めてくる「奇妙な感じ」を竹内一人で言語化しようとしてもなかなか言葉にならないが、本人を前に試みると、解決に繋がる言葉が出てくることがあるという(『竹内敏晴の「からだと思想」――2「したくない」という自由』)。