新国立劇場バレエ『白鳥の湖』2014/二日目/米沢唯という表現者

二日目について(2月16日 14時/新国立劇場オペラハウス)。
前回の『白鳥』では米沢唯のオデット/オディールを見て驚嘆し、ブログにも書いた(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20120515/1337087553)。2012年5月だがからもう二年近くも前になる。彼女にとって二回目となる今回はどうだったか。
いたるところで対話が成立していた。王子と道化、王子と家庭教師、王子と王妃、白鳥と王子、白鳥とロートバルト、黒鳥とロートバルト・・・。バレエに言葉はないはずだが、それらの対話が聞こえるようだった。
プロローグでは、ただならぬ気配を感じながら窓辺へ後ずさりするオデット姫(米沢)。ロートバルトの大きな翼が姫を包み込もうとするとき、後ろを振り返り「あっ」というように口を開けた。こんな仕草は初めて見た。
第二幕。王子との出会いから、少しずつこころが近づいていくさまが、本人がプログラムで言うとおり、踊りで見事に表出されていた(「プリンシパル米沢唯が語る『白鳥の湖』」聞き手・構成 新井彩子。『白鳥』の魅力が、これほど的確かつ緻密に語られた言葉を読んだのは初めてだ。踊り手の視点が含まれる分いっそう興味深いし、比喩の巧みさ――「ああでもないこうでもないとネジを一つひとつ締めていくような細かい作業が・・・」4羽の白鳥について「シリアスな感じが続く2幕の中で、ちょっと箸休めのようなコケティッシュな踊りが・・・。みんなで身体を斜めに浅く重ねて〝お刺身〟のようになって・・・」――は尋常ではない)。
初日ではグレブ・ニキティンの癖のあるロシア風ヴァイオリンソロが、二人の踊りを覆い隠したような印象があった。が、今日は、むしろくっきり創り出された二人の世界が音楽を追随させている。瞬きするのももどかしいと思わせるほど、見る者を注視させる踊り。とても緻密で静か。ロートバルト(貝川鐵夫)とのやり取りも明確でドラマティック。
第三幕。米沢唯はオディールでは人が違った。見違えるほど踊りが剛胆で大きい(パ・ド・ドゥ)。妖しげにロートバルトと囁き合い、見とれる菅野王子を翻弄する。グラン・フェッテでは、例によってトリプルとダブルを難なく入れる(ように見える)のだが、これ見よがしではない(バクランの指揮は初日・二日目共にかなり高速)。
第四幕は、牧版でドラマを立ち上げるのは至難の業だが、米沢と菅野は〝パ・ド・ドゥなし〟にも関わらず相互の深い愛を感じさせる対話的な踊りで魅せた。
菅野英男は、一幕で登場した瞬間から王子の佇まい。日本男性でこれほどノーブル(善美)さが滲み出るダンサーはあまり居ないのではないか。すべてが王子菅野を中心に動いていく。王妃との対話もきめ細やか。ロイヤルの親子に見える。オデット姫との誓いを思わず破ったあとの嘆きがまた素晴らしい。西川貴子も、菅野が相手だと王妃の気品がさらに増すように感じられる。第三幕のヴァリエーションではノーブルさを湛えたまま、力強く喜びの踊りを見せた。この日の菅野にはプリンシパルに相応しい重みが加わっていた。
福田圭吾の道化は、むやみにブンブン回るのではなく、コントロールして優雅さすら感じた。
この日のトロワは長田佳世、細田千晶、江本拓。総じて好かったが、江本のこだわりの左右両回転は見事。その影響か、第三幕のスペインの踊りでは、初日よりずっと好くなった。ルースカヤの細田千晶は、形がよく立体的な踊りへの志向がよく見えた。このダンサーは、もっと強い意志を持てば爆発するかも知れない。


米沢唯はいわゆる正統的なバレエダンサーではない。たとえば、バレエ独特の美しいラインは、彼女の踊りからはあまり見られない(最近はそうでもないが)。小野絢子にはそれがある(この点では川村真樹が群を抜いていたが)。ポスターやプログラムなどで小野の舞台写真が多く使われているのはそのためだろう。一方、米沢にはよい写真があまりないらしい。だが、実際の舞台では、信じがたいようなドラマを生起させる。
バレエはスタティックな紙芝居ではなく、いまここでダイナミックにドラマを生起させる舞台芸術だ。この踊り手は、ラインの美しさより、いまここの舞台で役を生きることの方を優先させている。少なくともそう見える。その意味で、米沢唯は〝美的〟ではないのだ。このことは、彼女が「自宅の壁に貼って、いつも心に留めておくようにしている」(『ダンスマガジン』2014年2月号)という二篇の詩をみれば明らかだ。谷川俊太郎の「舞台に 舞台から」と中野重治の「歌」である。こんなバレリーナがかつていただろうか。谷川の詩の方は、以前、西洋伝来の芸術であるオペラやバレエでも劇場をとりまく地域と地続きでなければならないことを論じたとき全文を引用したことがある(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20120831/1346403910)。とにかく、唯ちゃんには、好きなように目いっぱい踊って欲しい。それが許されると思うのは、ある意味で規範的な小野絢子の存在のお陰でもある。新国立劇場の観客は、いま、個性の異なる二人の瑞々しいバレエを定期的に見ることが出来るのだ。これは僥倖かも知れない。
今回は中野の詩を掲げて終わりにしたい。


お前は歌うな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え
たたかれることによつて弾(は)ねかえる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたたきこめ


                    中野重治