新国立劇場オペラ《ナブッコ》/果敢な演出は大歓迎だが/mammonism vs. Nature

オペラ《ナブッコ》全4部の初日を観た(5月19日/新国立劇場オペラハウス)。
このオペラを観るのは2001年11月のアントネッロ・マダウ=ディアツのプロダクション(初演98年6月)以来。あのときは没後100年、今年は生誕200年で、奇しくも共にヴェルディ・イヤーに当たる。

[新制作]《ナブッコ(ナブコドーノゾル)》 Nabucco (Nabucodonosor)
作曲 Music:ジュゼッペ・ヴェルディ Giuseppe Verdi (1813-1901)
台本 Libretto:テミストクレ・ソレーラ Temistocle Solera (1815-1878)


指揮 Conductor:パオロ・カリニャーニ Paolo Carignani
演出 Production:グレアム*1・ヴィック Graham Vick
美術・衣裳 Scenery and Costume Design:ポール・ブラウン Paul Brown
照明 Lighting Design:ヴォルフガング・ゲッベル Wolfgang Göbbel
振付 Choreographer:ロン・ハウエル Ron Howell
合唱指揮 Chorus Master:三澤 洋史 Misawa Hirofumi
舞台監督 Stage Manager:斉藤 美穂 Saito Miho


ナブッコ Nabucco:ルチオ・ガッロ Lucio Gallo
アビガイッレ Abigaille:マリアンネ・コルネッティ Marianne Cornetti
ザッカリーア Zaccaria:コンスタンティン・ゴルニー Konstantin Gorny
イズマエーレ Ismaele:樋口達哉 Higuchi Tatsuya
フェネーナ Fenena:谷口睦美 Taniguchi Mutsumi
アンナ Anna:安藤赴美子 Ando Fumiko
アブダッロ Abdallo:内山信吾 Uchiyama Shingo
ベルの祭司長 Gran Sacerdote di Belo:妻屋秀和 Tsumaya Hidekazu


合唱 Chorus:新国立劇場合唱団 New National Theatre Chorus
管弦楽 Orchestra:東京フィルハーモニー交響楽団 Tokyo Philharmonic Orchestra


芸術監督 Artistic Director:尾高 忠明 Otaka Tadaaki

このオペラ劇場はふつう開演45分前から開くのだが、今回は30分前まで開場をフォワイエに限定した。どんな仕掛けがあるのかと思ったら、カーテンは上がっており、舞台には大きな高級ショッピングモールが現出していた。エスカレーターが二台設置されている(残念ながら実際は動かず事実上の階段)。客席から見えるのは二つの階だけだが、さらに上階へは〝エスカレーター〟で、舞台の階下へは階段で繋がっている。モールには高級ショップが並び、AGOSTINO、 Cafe Lux、 TOCE ITALIA、 JACKIE KLEINE、MAMMON(「冨」「財貨」を意味する)等、いかにもそれらしいブランド名や、リンゴ(アップル)ならぬ洋ナシを象ったロゴマークが見える。
まだ開演前だが、上手に置かれたグランドピアノから音楽が流れ、高級そうな服を着た日本の男女がモール内のベンチに座ったり、ショッピングを楽しんだりしている。都内のデパート等で見かける風景とさほど変わらない。これが旧約のバビロン捕囚を描いた《ナブッコ》のセットなのか。われわれの社会を切り取ったような舞台を前にすると、それだけでなぜかわくわくする。この日本社会をどんなふうに相対化してくれるのか。久し振りに演出への期待で胸が高鳴った。東京(日本)で上演することを強く意識した演出といえば、なんといってもキース・ウォーナーの『ニーベルングの指環』(2001-2004)を想起する。二人ともイギリス人なのは偶然か。
序曲が始まると、モール1階の男性客らが、2階では女性客らが横一列になり、買ったばかりのブランド商品を慈しんだり、頭に乗せたりしてダンス(パフォーマンス)を繰り広げる。購買すること。それも有名ブランド品を。彼/彼女らにとって、それこそが至高の喜びであり、価値なのだ。冒頭のダンスは〝ひとびと〟のそうした価値観を端的に客席へ伝えていた。
イスラエルユダヤ)人は、ここではブランド志向の強い富裕層の〝ひとびと〟であり、したがってソロモン神殿は高級ショッピングモールというわけだ。ただし、大司祭(予言者)ザッカーリアだけは、〝ひとびと〟の神を忘れた在り方に危機感を抱き、みすぼらしい場違いの格好で「終末は近い」と書かれた看板を身に着け、彼らに注意を促している。面白い。背中に背負ったテープレコーダーから「終末」に関するメッセージを流しながら雑踏を歩くエホバの証人そっくりなのだ。バビロニアの王ナブッコはここではテロリスト(アナーキスト)の首領で、そうした拝金主義(突きつめれば資本主義?)にまみれた〝ひとびと〟に鋭く敵対する。
各部の冒頭で、旧約聖書からと覚しき一節が男声の日本語で流される。たとえば、正確ではないが、第1部では「この地の民は主のいうことを聞かず悪い行いをやめないため、主は、そのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地のその民を攻め滅ぼさせる」(エレミヤ書)といった具合に。現代の東京(日本)を思わせる舞台が、旧約の世界と対応していることを観客に意識させる効果があった。[あとで調べてみると、あれは、オペラ台本の各部の冒頭にエピグラフとして記された言葉のようだ。通常は読み上げることはないのだろうが、今回はその日本語訳を流したということらしい。]ただ、残念ながら、話の進行と共に辻褄が合わない(よく分からない)と感じる時間が増えていった。
第2部「不敬の男」は、本来は、イスラエルの人々が捕虜として連れ去られた敵地バビロニアの場面(第1場 バビロニアの王室の中/第2場 王宮の一室)。だが、今回は、第1部「エルサレム」でナブッコのテロリスト側がショッピングモールを破壊した後、この〝神殿〟を占拠したとの設定に変更されている。つまり、全4部を通し場面は変わらないのだ。この舞台のいくつかの難点はここに起因する。たとえば、第3部第2場の有名な「ゆけ、わが思いよ」の合唱は、本来は祖国イスラエルから遠く離れたユーフラテスの河岸で望郷の念を込めて歌われる。だが、今回の〝ひとびと〟は、自国の破壊されたショッピングモール内で、〝ブランド品を楽しく購入できた日々〟を懐かしんで歌っているにすぎない。これでは、歌詞と合わないだけでなく、聴衆も歌い手も、感情を同化したり込めたりするのは難しい。にもかかわらず合唱は素晴らしく、特に末尾の撥音(鼻音)の響きから沈黙へと至るあわいはとても美しかった。それがこころに迫るまでに至らなかったのは、合唱団のせいではなく、歌の文脈が変わったためである。
話は前後するが、第2部第2場でのフェネーナのベル(ベーロ)神からヘブライの神への改宗はどう考えたらよいのか。〝ひとびと〟(富裕層)へのテロリストとしての反感から彼らと同様の拝金主義(資本主義)へ、ではもちろんなく、〝ひとびと〟が見失っている「自然」の崇拝者へ、だろう。ポップな服から白いドレスに着替えたことがそれを物語る。だが、当の〝ひとびと〟が「自然」の尊さを見直す前に、敵方のフェネーナが「自然」を信奉するのは、その後で、〝ひとびと〟が未だ物質への執着を捨てきれない合唱歌をうたうことになるだけに、どうもすっきりしない。さらにいえば、テロリストたちの出で立ちは、たしかにそれらしい衣装ではあるが、もっと富裕層を憎悪する貧困さを強調してもよかったか。対立軸の肉付けがいまひとつ薄いように感じた。
第3部「預言」では、ショッピングモールの中央にキューピーのような人形の首が十字型の刃金(?)に突き刺さっている。この〝十字架〟には、様々な商品やブランドのロゴマーク「M」も括りつけられていた。そもそもあのキューピー人形は、Mammon のブランドショップ内に飾られていたはずだ。'mammon' とは「富」や「財貨」のことで、『マタイ伝』に由来する(6:24)。

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富[mammon]とに仕えることはできない。(新共同訳)

演出のグレアム・ヴィックは、ベル(ベーロ)神の偶像の代わりに、富裕層の〝ひとびと〟が崇拝するブランドM(富=物質欲)のマスコットを磔にして、破壊された〝神殿〟(ショッピングモール)に掲げたかったのだろう。
最後は、ザッカーリアが地面に植えていた小さな苗木が、勢いよく成長したさまをナブッコはじめ、皆が目の当たりにして幕となる。ヴィックがプログラムで「偉大なる自然の力」といったのは、木々を発育させる「光」のことか。
なんといっても評価されるべきは、合唱だったと思う。変則的な芝居をしながらつねに質の高いコーラスを聴かせてくれた。ナブッコ役のルチオ・ガッロは姿形がよく芝居もうまいが、歌唱は少しぶら下がり気味。アビガイッレのマリアンネ・コルネッティは、抜群の声量の持ち主だが、今回は抑え気味。それでも要所では場内に響き渡った。難しい役だと思うが、もっときめ細かさが欲しいところもあった。ザッカーリアのコンスタンティン・ゴルニーは、怪しげな予言者の役にはまっていたが、歌唱では残念ながら声が荒れていて聞きづらかった。ヘネーナ役の谷口睦美は、姿形がよいだけでなく、第4部の「ああ、天国は開かれた」など意外にも線の太い歌声で聞かせた。イズマエーレの樋口達哉は健闘したが、もっとふっくらとまろやかな声質を心がけて欲しい。脚がとてもきれいなアンナ役の安藤赴美子は、幕切れのアカペラでの大コーラス「エホバ賛歌」ではソプラノラインがよく効いていた。
パオロ・カリニャーニ指揮の東フィルは、いつもと音が違って聞こえた。ヨーロッパの劇場オケのよう。第2部第2場等のチェロをはじめ、弦に輝きと潤いがあり、管楽器も健闘した。特にフルート。
唯一神の観念をもたない日本の聴衆を考慮し、設定を大胆に変えた演出家の意図はよく分かる。だが、若干無理があったこともたしかだ。着想はたいへん面白いが、徹底していない憾みもある。
ヴィックは、東京で初演出するにあたり、経済一辺倒の「拝金(物質)主義的な価値観」(ブランドの Mammon 崇拝)と自然の力(脅威)を対立させた。これはおそらく、東日本大震災津波被害および原発事故を念頭に置いてのことだろう。元々本作には、神を僭称する「不敬の男」ナブッコへの「落雷という自然の脅威」が用意されていた。この脅威に晒され「消費者主義(消費主義?)という名の偶像も崩れ落ちたとき、舞台上の全員が謙虚さを取り戻します」とヴィックはいう。さらに「幕切れには、ある自然現象を用いることで、全員が偉大なる自然の力を共に感じ、神の恩寵を実感するさまを描きたいと思っています」と(プログラム)。後者は、先にふれた生物の発育を促す陽光だろう。だが、自然の脅威というなら、本当は落雷などではなく、地震津波を使いたかったのではないか。ただ、外国人として、それは憚られたのだろう。ひとつ間違えれば、前都知事の失言時のように、芸術的ならぬ道義的な批判を浴びかねないリスクもある。
ヴィックがプログラムで指摘した本作と『リア王』との類似性は興味深い。たしかにナブッコと二人の娘との関係は、リア王と3人の娘とのそれに比すべきものだ。さしずめフェネーナはコーディリアで、アビガイッレはゴネリルとリーガンを合わせたような存在だ。さらに、奴隷に生ませた子とすれば、性は異なるがグロースター伯の庶子エドマンドの要素もあるかも知れない。そのうえ、ヴィックは触れていないが、そもそも『リア王』は多神教(神々)の世界で、「自然」が重要な要素としてドラマに盛り込まれている。この点も含め、今回の演出は、シェイクスピアの戯曲を参考に組み立てたのかも知れない。ただ、親子間のドラマ性については、さほど肉付けされているようには感じなかった。
ヴィックの演出は総じて必ずしも成功しているとは言い難いが、いまの日本のありようをいろいろと考えさせる要素が盛り込まれていたことは確かである。今後もこうした大胆な演出は大いに歓迎したい。本当は日本のなかからそうした演出家が出てくるとよいのだが。最後に、十年ぐらい前から折に触れて思うこと――蜷川幸雄が演出した新国立のオペラをぜひ見てみたい。

*1:劇場は「グラハム」と表記しているが "Graham" をそう発音することはまずありえない。あるとすれば「グレイアム」か「グラム」だろう。モダンダンスの Martha Graham「マーサ・グレアム」も、カトリック作家の Graham Greene「グレアム・グリーン」も同様だ。ついでながら、バレエ指揮者の David Garforth を当劇場は一貫して「デヴィッド・ガルフォース」と表記してきた。本来は「ガーフォース」の筈だが。さらにいうと、バレエ部門の芸術監督 David Bintley も、「ビントレー」ではなく「ビントリー」とすべきだろう。ただし、ロマン派詩人の Percy Bysshe Shelley「シェリー」を明治時代には「シェレー」と表記していた例はある。当時はそう表記した方がイギリス人の発音に近いと感じたのかも知れない。