新国立《ナブッコ》再見/オペラを日本の芸術として育てるために/今後は日本の映画監督の登用を

ナブッコ》の演出を再確認したくて、売り切れのD券をネットで入手(5月25日/新国立劇場オペラハウス)。
席は3階右バルコニーのやや後方壁側。舞台はともかくオケピットは下手に陣取る弦バスが少し見える程度で、中央の指揮者はおろか、オケのほとんどが左手前方の観客たちに完全に遮られる。指揮者の動きがまったく見えないのはちょっとつらい(というか息苦しい)が、バイロイトも同じだと思い我慢した(!)。以下、初日のメモに書きそびれたことを少し。
Mammonのショップは宝石店らしい。なるほどmammon(富、財貨)の意味からすればぴったりか。
序曲の例のダンス後半で、2階の女達はお産のように気張りながら赤子ならぬショッピングバッグ(紙袋)を〝ひり出す〟動き。その後、〝産み落とした〟紙袋をいとおしむ。これは、子供を産むより購買の対象が、つまりブランド服等の方が大切だということ? あまり子供を産まない日本女性への諷刺?(産まない主な理由は他にあるからありえないが)。
第2部でフェネーナが着替えた白服は、「自然神」への改宗の伏線もあろうが、ウェディングドレスのようだ。白いヴェールがそれを物語る。新たに着替えたフェネーナは、ザッカリーアの妹アンナに介添えされて、下手奧のパソコンショップ洋梨のマークの)から出てくる。
ところで、アンナは〝エホバの証人〟を彷彿させる予言者の妹だが、見窄らしい出で立ちの兄とは異なり、こざっぱりとしたグレーのスーツ姿だ。
衣装といえば、富裕層の〝ひとびと〟(イスラエル人・レヴィ人)はモノトーン系の落ち着いたスーツやドレス。一方、彼らを襲うテロリスト(アナーキスト/活動家)は、迷彩パンツにオレンジ系のカラフルなパーカーを羽織ったラフな出で立ち。多くは豚等のアニマルマスクを被っている。ただ、後者も、前者同様、ものが良さそうで、富裕層に反感を抱く貧困層とは見えない。両者の対立理由が視覚的(演劇的)に十分反映されていないとの印象は、この日も変わらない。
第3部の「ゆけ、わが思いよ」の合唱は素晴らしかったが、やはり異国の地で強制労働のさなか〝望郷〟の思いから歌うのと、〝購買〟への執着を捨てきれない〝未練〟の歌とでは、歌う行為を支える内的な構え、すなわち思い入れの質がかなり違ってくる。この後、彼らはザッカーリアによるバビロニア崩壊の預言の歌を聴いてはじめて、手放せずにいたショッピングバッグを投げ捨てるのだ。つまり、この合唱は、本来は故国への郷愁のうちにイスラエルの神(エホバ)への思いを宿しているはずだが、ここでは、欲しいブランド品(及びそれらを気持ちよく購入できた日々)への思いがベースであり、そこには、「自然」(の神)を敬う余地は微塵もない。今回は音的に素晴らしい合唱とはなりえても、歌い手と聴き手と作品(歌詞を含む)が内的に共感し合ったとき生じる奇跡的な時空間が現出しにくいのは、そのためだ。
東フィルはこの日もよかった。ソロでは、初日同様、チェロ(服部誠 等)、フルート(森川道代)が素晴らしい。幕切れのイングリッシュホルン(三谷真紀)も効いていた。指揮者が違うとこうも変わるのか。もちろんオケが元々それだけの能力を有しているからだが、なんといっても上質の音楽を引き出したパオロ・カリニャーニの手腕が大きいと思う。
第1部の高級ショップを破壊する行為は、初日同様、中国で日本企業が襲われた例の映像を想起させた。ブランド志向はともかく、物質主義(拝金主義 mammonism)批判はいまの日本にも有効だと思うが、3.11以前の、特にバブル期頃の日本ならもっとインパクトがあったはずだ。だが、かつてと違い、車やブランド服にはほとんど興味を示さないといわれる昨今の若者にはぴんと来ないかも知れない(もっともオペラ劇場の常連はほとんど高齢者だが)。NBSによるオペラ引越公演であればぴったりはまるのだが(「特別会員」に入会しうる富裕な〝ひとびと〟は、数年前まで新国立のオペラなど見向きもしなかった。引越公演についてはhttp://d.hatena.ne.jp/mousike/20120831/1346403910)。
今回の舞台はしょっぱなこそインパクトがあったが、それも話が進むにつれてしぼんでいった。読み替えるならもっと細部まで徹底してほしい。たとえば、苗木のエピソードはやはり中途半間だし、特にラストシーンがあまり明瞭とはいえない。もちろん、ソレーラの台本自体が弱いといえばそれまでだが。
今回のようないわゆる読み替え演出は、この劇場ではほとんど見られなかった。劇場の〝若さ〟を考慮して、あるいは高齢の保守的な常連に配慮して(高齢者が保守的とは限らないが)、オーソドックスな舞台作りを心がけてきたのは理解できる。だが、日本には能や歌舞伎や文楽の伝統もあることから、舞台の見巧者が少なくない。ありきたりの演出ばかりではやはり物足りない。要はバランスだが、新国立でもそろそろ大胆な演出がもっと増えてもよいのではないか。若い層のオペラファンを増やすためにも、斬新なプロダクションを望みたい。
そのためには、海外の有名な演出家に依頼するだけでなく、7年まえ当時パリ・オペラ座の総裁だったジェラール・モルティエが言ったように、日本の映画監督にオファーしてほしい。そうすれば、映画ファンもオペラ劇場に足を運ぶはずだ。当劇場はこれまで演劇の演出家を数人登用してきた(野田秀樹、栗山民也、鵜山仁、宮田慶子)。野田以外はすべて劇場の演劇部門の芸術監督だが、国立の劇場としては、そうした利害にこだわらず広い視野で登用すべきだろう。もちろん映画監督を使うのは一定のリスクも伴う(あの野田ですらブーイングを浴びたのだから。だが、ブーイングはなかったが、独自性が乏しくつまらない『カルメン』より反撥の多かった『マクベス』の方がよほどマシだったと思う)。そもそも映画と舞台はまったく異なるメディアであり、前者の名監督でも後者の名演出家になれる保証はない。だが、これは、客層を拡げるだけでなく、オペラを

もはや輸入された芸術ではなく、日本文化の芸術、数ある日本で育っていった芸術の1つに今や含まれているのだと、自分たちの芸術の1つなのだということを意識できるような環境を整えていく(ジェラール・モルティエ『公開講座——オペラ劇場運営の現在・フランス——伝統と前衛、実験する歌劇場 講義録』昭和音楽大学オペラ研究所,2006年)

ことに繋がっている。要するに、オペラを日本の芸術として育てるために必要なのだ。劇場(芸術監督)にアーティストを見るたしかな眼と、観客/聴衆に劇場文化を育てる構え(愛情)さえあれば、必ず成功するはずである。この際、ぜひ。