別役実『はるなつあきふゆ』(劇団銅鑼)/“バッハのオペラ”から考える

9月26日(土)オペラシティでBCJの#114定演を聴いた。今回は世俗カンタータ・シリーズのVol. 6で演出付き「農民カンタータ」がメイン。少し早めにホール入り口へ到着しプログラムを入手。開場を待ちながら鈴木雅明氏の「巻頭言」を立ったまま読む。これがいつもの愉しみ。
そこには故ヘルベルト・ヴェルニケが演出した〝バッハのオペラ〟が紹介されていた。もちろんバッハはオペラを一作も書いてはいない。ヴェルニケは、バッハの教会カンタータ6曲を集め「アクトゥス・トラギクス(追悼行事)」と称する〝オペラ〟を作った(シュツットガルト/2000)。それが〝バッハのオペラ〟というわけだ。
鈴木氏によれば、舞台はドールハウスの断面になっており、その各部屋で、歌手が扮する〝普通の人びと〟が平凡な日常生活を繰り返す。食べたり飲んだり、泣いたり笑ったり、子供はボールで遊んだり、主婦(カウンターテナー)はアイロンを掛けたり……。各カンタータの合唱は全員で、アリアは各登場人物が歌う。氏は舞台を直接見てはいないと断りながら、こう続ける。「そして、それらのすべてが、徐々に『死』に向かって進んでいくことが、登場人物には見えない地下室に横たわる、ホルバインの絵画『死せるキリスト』を思わせるような死体で象徴されているのです」。

「アクトゥス・トラギクス」とは、J. S. バッハの追悼カンタータ《神の時こそ こよなき時》BWV 106の愛称ですが、思えばヴェルニケの意図は、この世の最も普通のこと、すなわち私たちが日々繰り返している日常的な営みも、その繰り返しは死に向かう歩みに過ぎない、ということだったのでしょう。

この条りから、二週間余り前に観た別役実の『はるなつあきふゆ』がすぐに頭をよぎった(銅鑼アトリエ/9月8日)。劇団銅鑼のアトリエで感取したことが、ずばり言語化されているように思えたからだ。
四季の移り変わりと共に、一つの家族が、その構成員たちが、いろいろあって徐々に変化していく。ゆっくりと進行する家族の崩壊。その様が、死にたがり屋(男5=モロ師岡)をはじめ、様々な男女が介在するなか、乾いたタッチで喜劇的に描かれる。印象的なのは、季節ごとに唱歌がうたわれること。春は「さくらさくら」、夏は「夏は来ぬ」、秋は「旅愁(ふけゆく、秋の夜)」、冬は「冬の星座」等々。初演時に「歌入り絵草紙」と副題が付いていたのはそのためだ。
最後の「冬」の場で、葬儀屋が遺体を乗せた移動ベッドを押しながら舞台を横切る。葬儀屋のひとり(男10)に扮する千田隼生は、強度の高い演技で絶妙なリアルさを醸し出す。あちこちで笑いが起きるが、このときなぜかグッときた。ああ、死んだのか、「春」から「秋」まで平凡に生きていた男4は。そう思った。女3(ナミエ)の夫で、男2(ヨシオ)と女1(マサエ)の父親ケンイチは死んだのか。そう思うと同時に、自分たちの措かれている「生の条件」が理屈を超えて身に沁みてきたのである。
ひとは「幸福」を求めて生きている。生の目的は「幸福」だろう。アリストテレスは、「幸福」こそ人間が究極的に追い求めるものであり、それは状態や所有(hexis: having, possession)ではなく、ある種の活動(energeia: activity, actualization)であるといっている(『ニコマコス倫理学』)。すなわち、幸福=よく生きること(eudaimonia: living well, doing well)。人間の最終目的(telos: end, goal)は「幸福」? 「よく生きること」? だが、その先には必ず死が待ち受けている。とすれば、その目的(end)はむしろ「死」というべきではないか。われわれは「幸福」を追い求めながら、なかなかそれを実現できず、次第に、その先にある「死」に近づいていく。どうかすると、いつ来るかも知れない「死」をなんとなく「待つこと」にならざるをえないのだ。
別役は「『待つ』ことの気詰まりを、四季がなぐさめてくれる」という。「我々は『生きている』のではなく『待っている』のであり、ただ四季が推移するからこそ、『生きている』ように錯覚することが出来るのである」と(「季節と死」パンフレット)。しかし、ただ「待つ」だけでは「よく生きる」ことにならない。つまり「幸福」を生きることが出来ないのだ。こうしたジレンマを性急に解消しようとすると、男5(死にたがり屋)のようになるのではないか。
ばた屋の男5は春には桜の木にロープを掛けて首を吊ろうとし、夏にはバケツの水で溺死しようとし、秋には不発弾を金槌で叩いて爆死しようとし、冬には青酸カリ(実は歯磨き粉)を飲んで死のうとする。が、やり切ることが出来ない。なぜ彼はこれほど死にこだわるのか。「冬」の場の通夜の席で、彼は死んだ男4の顔を覗き込み、思わず「本当だ」という。「よく死んでるって、そういう意味です、死んでるっていうのは……。よく死んでますよ」と。この「よく死んでいる」というのは、アリストテレスが説く「幸福=よく生きること」のパロディなのか。電車に飛び込んで死のうとした男2(男4の息子ヨシオ)は次のようにいう。

男2 お父さんはね、モチダ先生に癌だって聞かされた時、これで何とか生きていけますって、そう言ったそうだよ……。この人[死にたがり屋]も、そうなのさ……。死のうとしなければ、生きていけないんだ……。

死のうとしなければ、生きていけない人間。つまり「死」を、身を以て確かめないと、よく生きること(幸福)が実現出来ないという苦境。男5(死にたがり屋)の滑稽なふるまいは、この「気詰まり」を一気に解消すべく、究極の目的(の先にあるなにか)を先取りしようと足掻く人間の姿に他ならない。それを面白可笑しく描くところが劇作家の真骨頂だ。別役実の演劇は、こうしたわれわれの「気詰まり」を一時なぐさめてくれたというべきかも知れない。
ゲストのモロ師岡(男5)の全方位的な存在感はさすが。銅鑼の俳優も総じて好演。特に女2を演じた長谷川由里の戯画的な動きは別役的「不条理」感をよく体現した。演出は小山ゆうな。ライトモチーフのように流されたモーツァルトのロンド(「ハフナー・セレナーデ」4楽章)は、その快活さから、芝居の主調があくまでも「生きる」方にあることを告げていた。