新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(3)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も

(字幕=対訳の不適切な部分をいちいち指摘するのは気が重い作業だが、せっかくの優れた舞台が不正確な字幕によって損なわれたとの思いが拭えないため続けざるをえない。)
第2幕 第1場から続く間奏曲 IV パッサカリアは、不吉な調べを奏するヴィオラのソロや、村人たちの昂揚を思わせる金管の咆吼と神経をけば立たせる弦のフレーズ等が、これからただならぬ事態が起きることを暗示する。
第2幕 第2場はピーターの小屋の場面。小屋は、リブレットでは「逆さにした船」だが、本プロダクションでは、〝家〟の四つの壁のうち奧の二辺とベッドだけが設えられ、二辺の角が例の傾斜舞台が尽きる部分から僅かにはみ出し、隅の裂開部が「崖に面している」。ピーターはこの小屋へ少年を無理に押し込み、漁の準備をするよう乱暴に命じる。少年を急き立てたり(字幕=対訳は "Steady" を「動くな」と訳しているが、もちろんこれは「しっかりしろ」もしくは「落ち着け」の意。怖がる少年に発したこの言葉を、第3幕冒頭で「人間狩り」の対象となったピーターは自分自身に発することになるが、なぜかそこでは「落ち着け」と訳されている)、あるいは宥めたりする。そこで彼は、魚をたくさん獲って稼いだらエレンと温かい「家庭(home)を築く」夢を語るのだが、同時に、「夢が築くのは夢自体が否認できるものだ。/死の指がのびて、それを取り壊してしまう」(字幕=対訳「夢は、見果てぬ夢を作り出す/息絶えた指が広がり、引きはがそうとする」)と、次第に気持ちが乱れてくる。ところでピーターが「星々のなかに見た」「俺たちが共にする人生」の具体的イメージの条りを、字幕=対訳は「庭には果物がなり、海岸には子供たちがいる/きれいな白い戸口の階段、手入れが行き届いている( a woman's care)」と訳す。問題は最後のフレーズの意訳である。もちろん間違いではないのだが、一方、ブリテン/ピアーズ版CDの佐藤章訳(2006年改訂)はこれを正当にも「女手の世話」と訳している。多少硬くとも、「女」woman の文言を入れないと言葉の裏にあるエレンの存在がイメージできないからだ。
気持ちが荒れてきたピーターは、前に死んだ徒弟の幻影を見る。クラッブの物語詩でのピーターは、虐待して死んだ徒弟たちと反抗心から暴力まで振るった亡き父の亡霊に悩まされ、彼らの怖ろしい責め苦をうわごとのように語った挙げ句に死ぬ。オペラの幻影を見る場面はその名残といってよい。だが、オペラ台本は原作のピーターよりもずっと人間的な柔らかさを感じさせる。今回のスケルトンの演技は、少年のピーターに身体を寄せたり足下にしがみついたりする動きも手伝って、ピーターの人間性をいっそう強調しているように感じられた。やがて牧師やスワローをはじめとする村人の「異様な行進」が近づいてくると、ピーターの心はいっそう乱れ、少年を崖側の戸口から追い立てる。「道具は俺が放ってやる。さあ!/(彼は縄と網を投げる)/ほら/目をつぶって降りていけ」。ト書きでは、この時もう一つのドアを叩く音がし、ピーターはその方を向き、後ずさりする。その間に少年は這い出る。ピーターが二つのドアの中ほどに居る時、少年は悲鳴を上げ、転落して姿を消す。ピーターが少年の後から這い降りると同時に、村の男たちが小屋へ到着し、牧師とスワローは誰もいない片付いた小屋の内部を見て拍子抜けする。さらにト書きでは、みんなが出て行った後、バルストロードだけが残り、部屋を調べ、ピーターたちが出て行った所から下へ降りていく。だが、今回は、バルストロードも村人たちのあとから立ち去り、入れ替わるように、ピーターが死んだ少年を担ぎ上げて部屋へ運び、ベッドに寝かせ、事の顛末を激しく嘆いて幕となる。この嘆きは自らの行く末のみならず少年の死を悲しんでいるようにも見える。いずれにせよ、デッカーのこうした演出は、ピーターの過失性を軽減し、プロローグで少年の棺桶を彼に抱えさせる演出共々、ピーターの少年に対する人間的な関わりを印象づけ、彼を異分子として排他的に追い詰める村人たちの集団としての異常さと鋭く対比させる効果があったように思われる。
(続く)