新国立劇場演劇『白衛軍』2024

ロシア帝国時代のキーウで生まれたブルガーコフ原作の翻案英語版『白衛軍』の5日目を観た(12月7日 土曜 13:00/新国立中劇場)。

日本初演文化庁劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業/作:ミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)/英語台本:アンドリュー・アプトン(1966- )/翻訳:小田島創志/演出:上村聡史/美術:乘峯雅寛/照明:佐藤 啓/音楽:国広和毅/音響:加藤 温/衣裳:半田悦子/ヘアメイク:川端富生/演出助手:中嶋彩乃/舞台監督:北条 孝&加瀬幸恵

出演:村井良大 前田亜季 上山竜治 大場泰正 大鷹明良 池岡亮介 石橋徹郎 内田健介 前田一世 小林大介 今國雅彦 山森大輔 西原やすあき 釆澤靖起 駒井健介 武田知久 草彅智文 笹原翔太 松尾 諒

1917年の革命でロシア帝政が崩壊した翌年、ウクライナの首都キーウ(キエフ)で《革命に抗う「白衛軍」、キーウでのソヴィエト政権樹立を目指す「ボリシェビキ」、そしてウクライナ独立を宣言したウクライナ人民共和国勢力「ペトリューラ軍」の三つ巴の戦い》を、白衛軍の主要メンバーが集うトゥルビン家の視点から描く。ドラマは舞台機構を駆使して展開されるが、中劇場ゆえに俳優はPAを付けている。

奥から舞台が手前に移動し、トゥルビン家の居間が現出。青年ニコライ・トゥルビン(村井良大)がギターで歌うシーンから始まるが…笑わそうとする芝居はみな〝臭い〟(後で触れるが必ずしも役者のせいではない)。白衛軍の幹部タリベルク大佐(小林大介)の妻エレーナ(前田亜希)は本作では紅一点。夫の大佐がドイツへ行く直前に危惧した通り、ゲトマン軍の副官(上山竜治)はエレーナに言い寄り…。当時のウクライナの複雑な状況(に起因する人間関係)がこの場ではちょっと分かりにくいか。

ゲトマン軍の司令室の場。白衛軍を支援していたドイツ軍は撤退し、ウクライナ傀儡政権の元首だったゲトマン(采澤靖起)を連れてドイツへ…。

ペトリューラ軍の司令部の場。負傷兵や商人をユダヤ人と決めつけ虐待する。…

学校(体育館)の場。壁際に跳び箱や肋木(登る器具)やロッカー等々。白衛軍の大佐たちが立て籠もっている所へ、アレクセイ・トゥルビン大佐(大場泰正/エレーナや士官候補生ニコライの兄)にペトリューラ軍の優勢とゲトマン逃亡の知らせが届く。大佐は部下に武装解除と撤退を命じるが、アレクサンドル大尉(内田健介)らは従わず、大佐に銃口を向ける(このシークエンスはかつて情報を軽視し大敗を喫した日本軍を想起させる)。ヴィクトル大尉(石橋徹郎)やニコライが必死で説得し、やっとそこから逃げのびる。が、大佐はロッカーに入れた部下たちのリストを取り出し焼却するのに手間取り、敵の攻撃で死ぬ。ニコライは傷を負うが命は助かる。

トゥルビン家の居間。エレーナとラリオン(従兄弟)の居る家へ、ヴィクトル大尉とアレクサンドル大尉が這々の体で辿り着く。/その前に?レオニード副官が来訪。…深手を負ったニコライも帰宅する。…兄の戦死を知るエレーナ…。

舞台が回転し、学校の体育館に多くの遺体と灯明が並べられ、用務員が百合の花を供える…。

トゥルビン家の居間。クリスマスツリーの飾りを片付けるエレーナとラリオン。タリベルク大佐の帰宅…。終わり近くで『三人姉妹』【『ワーニャ伯父さん』? どういうセリフだったか忘れた】終幕のセリフが引用される。…

当時の史的な状況がやや複雑で、それをよく知らないと分かりにくいか。

いくつか疑問がある。

ブルガーコフのロシア語小説『白衛軍』(1924)と、それを本人が戯曲化した『トゥルビン家の日々』(1926)をオーストリア人劇作家アンドリュー・アプトンが翻案しイギリスで上演した舞台に感銘を受けた上村氏が、今回、その英語版『白衛軍』(2010)を和訳(小田島創志訳)した台本で上演した。ブルガーコフの原作は小説・戯曲とも邦訳があるらしい。にもかかわらず、なぜ14年前の英語版を使ったのか。ロシアのウクライナ侵攻からすでに2年半経過している。2024年の上演に相応しい新たな翻案の作成も可能だったはず。簡単ではないとしても、船岩裕太による見事な翻案・演出の『テーバイ』を直前に観ただけに尚更そう思った。

なぜ演劇では満足度の高くない中劇場を使ったのか。ここはキャパの大きさやマイクの使用等から、舞台と観客との相互波動が起きにくく親密な演劇体験が損なわれやすい。今回ダイナミックな舞台機構を駆使してはいたが、その演劇的必然性はどの程度あったか(たとえば新国立開場公演『紙屋町さくらホテル』のような)。

トゥルビン家の日常を描く(本来は)コミカルな遣り取りは、後のシリアスな場面との対照性を際立たせる狙いだろう。小劇場なら功を奏したかもしれないが、舞台と客席が離れた中劇場だと(ミュージカルならともかく演劇では)たんなる〝臭い芝居〟に見えてしまい、冒頭で帰りたくなった。

新国立劇場は、原作を英米人が英語に翻訳・翻案した台本(の翻訳)に依存すぎだと思う。なぜ原作から(直接)訳した、または、みずから翻案したものではなく、二重に媒介された台本で上演するのか。そこに演劇的な理由はあるのだろうか。船岩祐太の『テーバイ』は〝国立〟(National)の名を冠した劇場で上演するに相応しい作品だった。