新国立劇場 演劇『リチャード三世』/卑小で道化たリチャード/倉野章子のヨーク公爵夫人に感動/演出としては物足りなさも

シェイクスピアの『リチャード三世』を新国立中劇場で観た(10月3日=初日/19日)。
演出:鵜山仁/翻訳:小田島雄志/美術:島次郎/照明:服部基/音響:上田好生/衣装:前田文子
三年前の『ヘンリー六世』三部作は、一挙上演の祝祭性と演出家(当時は芸術監督)の意気込みが〝熱〟のように伝わってきた。今回はその続編の上演だが、そうした熱が冷めたような、通常の一公演といった趣き。舞台の中央には小高く盛り上がった土俵大の円形部が作られ、回りは赤銅色の砂地が砂漠のように広がっている。舞台奧へは花道のような路が登っており、前舞台との境を半透明のビニール幕が仕切っている。その手前には開閉式のハッチがあり、奈落(ロンドン塔=死の場所)へ降りる階段が設えてあるらしい。衣装は現代風。
演出のコンセプトが分かりにくく舞台セットもごちゃごちゃした印象だが、役者を見る歓びは随所にあった。たとえば、クラレンス暗殺の場(1幕4場)。ここで暗殺者2に扮する吉村直が『ゴドー』のエストラゴンみたいな出で立ちでとぼけた存在感と絶妙な演技により、劇場の重い空気を一気にほぐした。女優同士のやりとりも見応え十分(4幕4場)。幼い子供(孫)らをリチャードに殺されたエリザベスとヨーク公爵夫人の嘆きに、客席付近のマーガレットが傍白で絡んだのち、二人の呪詛に加わるシーン。さらに、二人が出陣するリチャード王を呼び止め、呪いの言葉を浴びせるシーン等。特にヨーク公爵夫人の倉野章子が息子リチャードに呪詛の言葉を投げつける条りは、言葉とは裏腹に滲み出る母の切ない哀しさに、思わずグッときた(特に昨夜の舞台)。エリザベスの那須佐代子は、仇リチャードから娘を妻にほしいと言われた際のタフなやりとりを熱演した。マーガレット中嶋朋子は、これまたベケットの芝居に出てくる老婆のようなアウラで、この世の者とは別次元の、妖しい存在感をよく出していた。本来はもっと老けてもよいはずだが、シェイクスピアが「墓場から舞台に呼び戻し」た役だとすれば(石井美紀子=プログラム)あれでよいのだろう。
子役を使わず、死んだ親(エドワード王、クラレンス公)に扮した役者が顔出しのまま小さな人形を使い、いわゆる子供の声色なしに演じる趣向は面白かった。特にエドワード王を演じた今井朋彦が王子エドワードとヨーク公を交互に語り分ける場面は実に巧みで切れ味があり、文楽の伝統を想起させた。
タイトルロールの岡本健一は道化じみたリチャード像を、好演した。ただ、個人的には物足りない。この役には圧倒的な個性を求めてしまう。たとえば、野営テントで悪夢(亡霊)を見た直後の独白などは、軽すぎると感じてしまう。だが、もちろん、こうした不満は岡本にではなく、演出家に帰すべきものだ。
岡本の軽妙なリチャード王が漫画の〝白馬の騎士〟然とした浦井健治リッチモンドとの一騎打ちで斃れ(殺陣はなく象徴的な決闘)、奈落=墓穴へ降りていくとき、舞台の上方に木馬が映し出され、シューマンピアノ曲子供の情景』冒頭の「見知らぬ国と人々について」が流される。なるほど。先の、母親から祝福どころか「この呪われた胎のなかにいるあいだに絞め殺しておけば」等々と呪詛される場面に呼応した演出だ。卑小でおどけたリチャードの最期の哀れさを引き出す意図だとすれば、一定の効果はあったと思う。だとしても、やはり物足りない。『ヘンリー六世』(2009年)にも『オットーと呼ばれる日本人』(2008年)にも同じものを感じた(さらにいうなら、オペラ『カルメン』にも『鹿鳴館』にも)。この演出家の舞台では、いつも幕切れに失望感が伴う。舞台の進行と共に、ある種の期待が膨らんでいき最後にそれが裏切られ、あとには寒々とした感触が残るのだ(それが作品への認識を深めるものならよいのだが)。今回はその点ではまだしもであるが、やはり同種の物足りなさは残った。この物足りなさはどこから来るのか。演出する人間の〝世界観のまずしさ〟から、としか言いようがない。この〝まずしさ〟は、演出の技倆や世界についての知識の量とはまったく関係がない(彼は両方とも十分備えている)。ただ、この〝まずしさ〟は、舞台のそこかしこから感受される種類のものである。
ついでに、音楽選択についての違和感について。モーツァルトピアノソナタはともかく、リチャード(グロスター公)が聖職者と瞑想し王座に色気などない振りをする場面ではフォーレの『レクイエム』が使われたが、これは『ニナガワ・マクベス』のパロディだろうか(少なくともオマージュとは思えなかった)。また、合戦の場面ではスコットランド民謡「オールド・ラング・ザイン(蛍の光)」のバクパイプ版が、リッチモンドが両家の和解を宣するラストにはアイルランド民謡「夏の名残のバラ(庭の千草)」を聖歌風にアレンジしたものが使われていた。どちらもイングランドではないからダメだというのでは必ずしもない。なにより音楽選択の趣味があまり好いとはいえないし、使用された音楽と場面との関係や意味づけがナイーヴすぎるのだ。
最後に、劇場のキャパの問題について一言。新国立の中劇場は演劇上演にはやはり大きすぎると思う。別の場所で論じたように(野田秀樹『エッグ』/演劇性と劇場キャパシティの関係について - 劇場文化のフィールドワーク)舞台上で役者たちがいくらよい演技をしても、ハコが大きすぎると、その演劇的なうねりが客席全体にまで波及していかないからだ。マイクで声を増幅すると、科白の表層は伝達されても、増幅した分、その時の役者の呼吸や無意識の動きなどは逆に伝わりにくくなる。観客の注意が声の表層に集まりがちになるからだ。今回の舞台を小劇場で上演したら、また違った演劇体験になっただろう。特に〝等身大〟を超え出ていかない演出家の場合はなおさらである。