ハーウッド作『テイキングサイド』Ronald Harwood, TAKING SIDES/深みに欠ける舞台/ドラマトゥルクの必要性

ロナルド・ハーウッド作『テイキングサイド〜ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日〜』の初日を観た(2月1日/天王洲 銀河劇場)。
戦時下の音楽家を扱う本作はそのテーマ(危機と芸術の問題)に惹かれ、原書で親しんできた。劇団民藝が『どちらの側に立つか』のタイトルで日本初演したことを後で知った(1998年/紀伊國屋サザンシアター)。一度は舞台を観たいと思っていた作品だ。
ハーウッドの出世作『ドレッサー』は本邦初演を見ているが、調べてみると1981年だ(日生劇場)。そんなに前だったか。出口典雄が演出し、平幹二郎が座長の付き人(ドレッサー)でオカマの役を熱演したと思う。最近では、加藤健一事務所が鵜山仁の演出で『コラボレーション』を上演した(2011年/紀伊國屋ホール)。これは『テイキングサイド』の姉妹作(companion piece)で、ナチスの台頭を背景に音楽家リヒャルト・シュトラウス(加藤)やユダヤ人作家のシュテファン・ツヴァイクが登場する興味深い舞台だった。
Taking Sides のイギリス初演(1995)は、あのハロルド・ピンターが演出し、マイケル・ペニントン(Michael Pennington)がアーノルド少佐を、ダニエル・マッセイ(Daniel Massey)がフルトヴェングラーを演じ、後者はこの役でローレンス・オリヴィエ賞を受賞したという。観てみたかった。ペニントンといえば、東京グローブ座のオープニング・フェスティヴァルで「薔薇戦争七部作」を一挙上演したイングリッシュ・シェイクスピア・カンパニーの芸術監督兼俳優だ(1988年4月)。役者たちは朝から晩まで次々に何役もこなすのだが、とりわけペニントンが演じたリチャード二世は印象深い。王が自己憐憫たらたらで口にする"So weeping, smiling, greet I thee, my earth . . ."などはまだ耳に残っている。ちなみに、本国でCollaborationを初演したときTaking Sidesと同時上演し、ペニントンは前者ではシュトラウスを、後者ではフルトヴェングラーを演じたようだ(2008年)。

作:ロナルド・ハーウッド
演出:行定 勲

訳:渾大防一枝
美術:二村周作
衣裳:前田文子
照明:佐藤 啓
音響:長野朋美
演出助手:河合範子
舞台監督:藤本典江
キャスト
ティーヴ・アーノルド:筧利夫
エンミ(エミー)・シュトラウベ:福田沙紀
タマーラ・ザックス:小島聖
ヘルムート・ローデ:小林隆
デイヴィッド・ウィルズ中尉:鈴木亮平
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー平幹二郎

主催制作:WOWOW ぴあ TSP 銀河劇場

一応かたちはととのっているが総じて深みに欠ける舞台。これが見終わった直後の感想だ。役者は揃っていても、演出する側に問題がある。台本の読み込みも、背景となった当時の文化的・社会的状況への理解や洞察も共に十分とは言い難い。
まずはプロットから。第二次世界大戦後、敗戦国ドイツの大音楽家が、ナチスの協力者か否かを問う裁判の法廷に立たされた。この芝居は、それに先立つ予備審査に焦点を当てたもの。尋問するのは勝者側のアメリカ人少佐で、クラシック音楽にはまったく無知な元保険調査員。追求されるのは、政治には疎く頑迷に芸術を信奉するドイツ人指揮者フルトヴェングラー。対照的なふたりの白熱したやりとりでは〝芸術と政治〟を軸にシリアスな話が展開されるが、随所に演劇的笑いが(台本上は)仕組まれている。
セットはオーソドックス。ステージのほぼ八割ほどがアーノルド少佐のオフィス内部を占め、下手には少佐の立派なデスク、上手に秘書エミーの小さなテーブルが置かれ、正面には大きな扉があり、その上方の壁面に鷲を象ったナチス・ドイツの国章を剥がした跡が見える。舞台前方には、空爆で破壊された街の瓦礫が部屋を取り囲むように散乱し、両袖には崩れた壁の無惨な残骸が見える。
次に役者について述べるが、以下に記す不満のほとんどは演出家によって改善解消しえた類のものである。
アーノルド少佐は、いわばヨーロッパ人から見たアメリカ人の典型(Yankee)で、芸術や教養とは無縁の人物である(作者によれば、アメリカ上演時に当地の批評家たちがかなり異議を唱えた。が、その後、アメリカの元情報部員から手紙で「フルトヴェングラーの実際の尋問者たちは私が創出した少佐よりはるかに野蛮で粗野だったことが判明した。彼らはほとんどがミルウォーキー出身の農家の若者で、彼らが選ばれたのは、ドイツ語を、というかドイツ語のようなものを話したからであり、みなヨーロッパ文化にはほとんど、あるいはまったく関心がなかった」ハーウッド「真実と虚構——舞台と映画のホロコースト」2005年)。アーノルドはフランクな態度を好み下ネタを含む品のないジョークを飛ばすが、元保険会社の損害査定人だけあって記憶力抜群でかなりの切れ者である。筧利夫は、NHKの「名曲探偵アマデウス」の所長役のイメージから、アーノルドは適役かと思われた。だが、感情を入れず、終始テンション高くまくし立てるやり方が適切だったかどうか。なにより台詞が聞きづらい。造形が難しいのは分かるが、つか作品とは別種の工夫が欲しかった。
ドイツ生まれでユダヤアメリカ人ウイルズ中尉の鈴木亮平は姿形がよく台詞回しも悪くない。
エミー(エンミ)の福田沙紀もまずまずだが、敗戦国のドイツ人として戦勝国アメリカ人将校の秘書を務める複雑さを多少は出してもよかったか。
かつてベルリンフィルの第2ヴァイオリン奏者だったローデ役の小林隆はさすがに達者。もっとコミカルな味が出せたはずだが、「心の葛藤」(プログラム)を重視したためか割合シリアスに演じていた。
タマラ・ザックスはユダヤ人ピアニストである年下の夫を収容所で虐殺された過去を持つ。小島聖は情緒不安定なこのドイツ人女性を外連味たっぷりに造形した。その分、やや芝居臭さが気になったが。
平幹二郎フルトヴェングラーは細かなト書きの指示は気にせず独自のやり方で台詞に生命を吹き込んでいく。その演技には迫力があり、さすがだと思わせる。だが、劇作家が造形した人物像とはかなり異なることも確かだ。台本では、尊大ではあるが、カラヤンへの嫉妬など、かなり神経質で脆弱な面も見え隠れする。平の造形は、やや単純で、少しタフ過ぎるように感じられた。
演出について。
まずは第1幕の幕切れ近く、アーノルド少佐にイギリス人将校からヒンケルアーカイブの件で電話がかかってくる場面を取りあげたい。ウィルズ中尉はこの機を利用し、フルトヴェングラーに積年の思いを伝えようとする。幼少時、父親に連れられて聴いたフルトヴェングラーのコンサートで「新しい世界が開かれた」体験をいわば〝信仰告白〟するのだ。「以来、音楽が私の生活の中心になりました。私の一番の慰めです」。両親をアウシュヴィッツで殺されたウィルズには「慰めが必要」だった。「あなたに感謝いたします」。父親がヒットラー暗殺計画に加わった廉で処刑されているエミーも「同じです」と感謝を述べる。フルトヴェングラーが祖国に残ったのは人民に「慰めを与えるため」だったという彼の弁明を〝人民の声〟(ウィルズとエミー)が裏付ける場面である。
だが、ハーウッドは、この感動的なシークエンスを、電話中のアーノルドが時折あげる下世話な笑いや叫び声で演劇的に疎外する。アーノルドは、ハンス・ヒンケルが収集したアーカイブ(文書)にはナチスに協力した芸術家に関する詳細な資料が含まれることを知り、これで「バンドリーダー」(フルトヴェングラー)の尻尾がつかめると狂喜しているのだ。つまり、受容者の口から語られる、危機的時代の芸術の意義(慰め)を手放しで肯定することに、南ア生まれのユダヤ系イギリス人であるハーウッドは簡単には与しない。その受容者が、たとえ、ナチスが虐殺した被害者の家族(という設定)であっても。その意味で、優れて演劇的な場面といえるのだが、今回の演出ではまったく効果的ではなかった。まず、ウィルズらの立ち位置がアーノルドのデスクに近すぎるせいか、受話器を持ったアーノルド役の筧は二人の対話を妨げないよう配慮しているかのようにほとんど表情を変えず沈黙し、数回声を上げる程度。そんな感じだった。これでは、危機時代の芸術の意義を演劇的に対象化する効果は望めない。
ついでにいえば、この場面の後、エミーがお気に入りのレコード(ベートーヴェン交響曲第8番 第1楽章)をかけるところも、妙な沈黙が入り間が悪かった。
第2幕第1場はアーノルド少佐がローデのみを呼び出し、ナチス党員であった証拠を突きつける場面だが、その後暗転となり、ベートーヴェン交響曲第7番の第2楽章(アレグレット)が流れはじめ、舞台正面の壁(オフィスの扉とその上方の国章跡の部分)に当時の資料映像が映し出される。ハーケンクロイツの旗を持った軍人たちの行進や演説するヒットラー。やがて、痩せこけたユダヤ人たちの死体の山がブルドーザーで巨大な穴の中へ押しやられるシーン。はっと目覚めるアーノルドに照明が当てられ、第2場となる。映像や音楽の指示は台本にはないが、ハーウッド自身がスクリプトを書いた映画版にもハーヴェイ・カイテル扮するアーノルド少佐が同様の資料映像を見るシーンがある(イシュトヴァン・サボー監督/2001年/独仏墺英共同制作)。当時の状況に馴染みのない日本の観客のため、アーノルド少佐がフルトヴェングラーを厳しく追及する動機付けとしてのオブセッションを映像として見せる演出は悪くない。
第一幕、タマラ・ザックスの回想場面で、ピアニストの夫と或る地下室へ赴き、フルトヴェングラーにピアノ演奏を聴いてもらった話をするが、このときタマラだけにスポットを当て、ベートーヴェンの「ヴァルトシュタイン」ソナタが流された。この演出もありきたりではあるが効果的だったと思う。
第2幕第2場、本作の大詰めについて。

フルトヴェングラー ・・・しかし音楽家として、わたしは単なる市民ではない。偉大な音楽の神髄が証明するあの永遠の感覚[意味]において、はじめてわたしはこの国の市民なのだ。偉大な傑作のたった一回の演奏でも、言葉よりも一層強力に一層徹底してあのブーヒェンヴァルトやアウシュヴィッツを生み出す精神構造を、否定しえたことをわたしは知っている。人間はヴァーグナーベートーヴェンが演奏されるところではどこでも自由なのだ。音楽は人間を、拷問者や殺人者の手の届かない領域に運んでいった(transported)のだ。


 アーノルドはデスクから指揮棒を掴み、フルトヴェングラーの前にぶるぶる震えて立ち、ボキッと二つに折る。エンミ[エミー]は耳に指をつっこむ。


アーノルド (彼の怒りは静かな恐るべき威嚇となって噴出する)あんたは人肉の焼ける臭いを嗅いだことがあるか? おれは四マイル先から嗅いだ。四マイル先から、嗅いだ。おれは今も嗅ぐ、夜、嗅ぐんだ、鼻の穴にあの悪臭がこびりついていてもう眠れないからだ。この先一生嗅ぎ続けるだろう。あんたは死体焼却場やガス室を見たことがあるか? 腐りかけた死体の山が巨大な穴に、彼らを殺した男や女の手で投げ込まれているのを、あんたは見たことがあるか? おれはこういうことをこの目で見たのだ。それ以来毎晩見ている、夜な夜な、それを見て叫んで目が覚める。おれにはもう二度と安らかな眠りはないだろうと分かっている。あんたはおれに文化と芸術と音楽について語るんだな? あんたはそれを秤にかけるのか、ヴィルヘルム[ウィルヘルム]? あんたは文化と芸術と音楽を、あんたの仲間が死に追いやった何百万の人々と対置させるのか? 何千、何百万のユダヤ人が絶滅させられているとき、お友達に電話を掛けて、二人ばかりの(a couple of)ユダヤ人を助けたといって、それをあんたは秤にかけようというのか?(渾大防一枝訳)

[ト書きでの表記は〝エンミ〟とドイツ語読みでよいが、(教養のない)アメリカ人のアーノルドが彼女を呼ぶときは〝エミー〟とするのが自然。同様に、彼がフルトヴェングラーファーストネームで呼びかける際は〝ヴィルヘルム〟でなく〝ウィルヘルム〟とすべきだろう。]
本作におけるフルトヴェングラーの言葉は、この長台詞を含む大半が実際の非ナチ化裁判での発言に基づいているという(前掲書)。当時ナチスがヨーロッパのユダヤ人たちを死の収容所へ〝移送した〟(transported)事実を思うと、フルトヴェングラーの台詞に、趣旨は真逆だが、同じ単語が使われているのは皮肉である。
平は音楽の偉大さについて悦に入り得々と語ることで、フルトヴェングラーの特権意識をよく出していた。芸術(音楽)と虐殺された死者たちとを天秤に掛けたフルトヴェングラーの傲慢な態度にキレたアーノルドは、その「怒りが静かな恐るべき威嚇となって噴出する」はずだった。ところが、筧のアーノルドは軽やかに進み出て、拍子抜けするほどあっさりと指揮棒を折る。それから、以前の高い調子とは打って変わった、普通の発話で淡々と台詞を語っていた。これでは収容所の地獄を見たアーノルドの〝怒り〟から〝噴出する恐るべき威嚇〟などまったく伝わってこない。この演出家は、映画と演劇とのメディアの違いを十分に理解していないのではないか。
ラストは正面の壁が上部へ引き上げられると、奧には瓦礫の山が見え、そこで、観客に背中を向けたフルトヴェングラーが、ベートーヴェンの第九の第1楽章に合わせて拍子を取っている。やがて彼は意気消沈したように脱力し、暗転となる。
役者たちは皆それぞれ独自な様式で喋っており、それらをひとつの方向へ導き、知的・演劇的に統括する視線(演出)がほとんど感じられない。そもそも対話が成立しているとは思えなかった。
アーノルド少佐の台詞はかなりカットされていた。日本語に訳しても文化的な違いから台詞として意味をなさない箇所は仕方ない。が、たとえばアーノルド少佐が保険会社の損害査定人時代、アルトサックス奏者の自宅全焼を保険金詐欺として見破ったエピソードなどは、カットすべきではなかったと思う。〝答えることのできない質問〟として、なぜドイツに留まったのかをアーノルドがフルトヴェングラーに問う場面への伏線もカットによって消し去られるからだ。
いずれにせよ、このような作品を舞台化するのであれば、演劇の専門的知見を有し、戯曲の歴史的・文化的背景等を広範にリサーチして演出家を補助するドラマトゥルクのようなスタッフが必要だったのではないか。『カラヤンフルトヴェングラー』の著者が「協力」者リストに名を連ねてはいるが、どの程度コミットしたのだろうか。

料金設定について。この公演は全席とも9000円(二階席も含む)。プログラムが1200円だから、合わせて10200円。学生等の割引も一切ない。第二次世界大戦直後の敗戦国の芸術家の戦争責任を問題化した本作は、観る者を、そのまま日本の当時の問題へとリフレクトする可能性を秘めている。だが、上記の料金設定では、若い人たちが観る機会を大幅に狭めているといわざるをえない。主催者には、もっと日本の演劇文化の将来を見据えた興行主としての志しを望みたいものだが、無理だろうか。