F/T12 イェリネク『光のない。』"Kein Licht."/異和感と強度/シンポの社会学者に唖然

イェリネク作『光のない。』の舞台上演を観た(11月17日/東京芸術劇場プレイハウス)。・・・やはりメモしておく。

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林 立騎
演出:三浦 基(地点)
音楽監督三輪眞弘
美術:木津潤平
出演:安部聡子、石田 大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平 (以上、地点)
合唱隊:石田遼祐、板野弘明、小柏俊恵、黒田早彩、平良頼子、中原信貴、野口亜依子、林 美希、藤崎優二、幣真千子、村田 結、米津知実
衣裳:堂本教子
照明:大石真一郎(KAAT)
音響:徳久礼子(KAAT)
舞台監督:山口英峰(KAAT)
技術監督:堀内真人(KAAT)
制作:田嶋結菜(地点)
製作:フェスティバル/トーキョー、地点

台本を読みながら、東日本大震災と福島の原発事故で死にゆく被害者の内的対話に声を与えた作品かと思い、深津篤史の『珊瑚囁』を連想したりした(2009年 新国立演劇研修所2期生の修了公演用に創作された作品で、神戸の震災時にコンクリート等で下敷きになった死者たちに声=言葉を与えた鎮魂歌)。が、読み進めると、そんなストーリーからはみ出す過剰な言説がどんどん増殖していく。やはり他のイェリネク作品同様、一筋縄ではいかないテクストだ。これを舞台化するには、3.11の出来事性はもとより、そこから溢れ出るノイズを包摂しうるフレームが必要となろう。それをどうやって作り出すのか・・・。こんな先入主を抱いて劇場へ。
シャッターを思わせるダークグレーの幕が降りており、幕前のオケピット部分まで舞台が迫り出している。やがて下手の客席扉から幕と同色のスイムスーツヒレを付けた女性がヴァイオリンケースを持って入ってくる。同じ出で立ちの男性も登場。テクストの話者A(第1ヴァイオリン)とB(第2ヴァイオリン)かと思いきや、普通の衣服を着た三名を含む、計五名の役者が、客電が点いたままの客席に呼びかける。「わたしたちー」と。「わたしたちー」「あなたたちー」「あなた」「わたし」「わたし?」「わたし、たっち?」・・・。なんだこれは。いやな予感。「演出ノート」(プログラム)からすると、イェリネクが発する「わたしたち」をまず役者たちが受け止め、それを客席の「わたしたち」と同化させ巻き込むためのまじないなのだろう。当事者性をめぐるプロローグか。だが、強烈な異和感
やがて客電が消え、幕が開く。舞台は同じく濃灰色の急な傾斜となっており、奥へいくほど空間は狭まり、その先には四角い窓のようなスクリーンが見える。カメラの内部のよう。その窓=スクリーンに光が、光の動きが映し出される。舞台手前に、横一列、十数人の裸足の両足が突き出ている。見えるのは足だけ。土に埋まった人間たち(?)。コロスなのか。コロス=歌手たちは仰向けのまま、動物の鳴き声や、啜り泣き、笑い声を発し、咳もする。絶妙なタイミングで。声明のように響く一節もあった。独特の味わいで、妙に美しい。こうした舞台で五人の役者たちがイェリネクのテクストを発していく。プロローグ同様、奇態な日本語の発話。一瞬、維新派を想起しゾッとしたが、彼らと違い、この五人にはディシプリンがある。それははっきり分かる。喋っては何度もばたんと倒れる役者たち。彼らは言葉を意味ではなく、音化しているのか。反復される鍵語が強調され、方言のようにも聞こえたりする。だが、発語された言葉は、結果として、意味を結ぶというより音として感受される。ラストのストレッタは五人の役者が中央に並び、真ん中の女性がマイクで喋る。他の四人はヴァイオリンケースから鈴を取り出し、体に電極をつなぐ。マイクの女性が早口で一気呵成に言葉を発する間、電気の反応で四人が同時に反応し、鈴を鳴らすことになる。時々マイクの電気が切れる。役者たちは、次第に体内のエネルギーが枯渇していくように、ひとり、またひとりと衰え倒れる。最後は、シャッターのような幕がゆっくり降りてくる。
カーテンコールも終わり、客電が点いたため席を立ち始めると、一人の男性俳優が上手から迫り出し舞台に登場し、「わたしたちー」と呼びかけ、イェリネクのテクストを再び発し始めた。「・・・こちらへ来てほしい、ミューズよ、違う、風の花嫁よ、さあ、風が生んだ、違う、むしろ大地が生んだおまえ、違う、そう、水が生んだおまえ! 泡立てる者! おまえはわたしたちの大地になにをした。わたしたちは今どこに立つ。大地は遠くから幽霊たちに動かされ、別のどこかに移されたのか。底がない! おまえはすべてをかき乱した、ミューズよ、弦を鳴らしてほしい、おまえは見事に弾くのだから、二本の弓のどちらでもいい、わたしたちは喜んで貸そう、始めてほしい、もう一度始めてほしい、嘆きに満ちた調べを!・・・」。俳優は観客を睨みつけるように、とても力強く発語する。「・・・恐ろしいことが起こる、誰かが泣く、塵が目に入ってもいないのに。わたしたちのなかからなにかを取り除こうとする欲求があるに違いない、それが涙なのか、音なのか。泥だ、泥だ! すさまじい! 汚泥。汚物。水と不快に混じる。その一部だけでも、わたしたちが涙を流すには十分だった」。初めてまともな台詞回しを聞いた。強固なバリトンの声。じつに能力の高い俳優だ(「地点語」を使わない芝居で見てみたい)。
観終わった感想は、テクストの読みや解釈の深さが感じられるというのでもない。強い異和感が残ったが、舞台に強度がなかったわけではない。強度があったから異和を感じたというべきか。インテグリティがなかったわけではない。五人の役者はかなり質が高い。別の演出家で彼らの出演する舞台を観てみたい。三浦基は強度の高い舞台を作る力量がある。それは確かだ。「地点」以外の役者を使った舞台を観てみたい。
終演後、アフタートークを傍聴してみた。ゲストの片山杜秀が謙虚に語る解釈は面白い。音楽監督三輪眞弘の話。コロスの合唱は「演算」によるもの? 興味深い。演出の三浦基が〝大家〟のように話す話。これも興味深い。
数日後、シンポジウム「テーマ2:演劇の言葉はどこにあるのか? 」をUSTREAMで見た。途中からだったが、翻訳者の話をはじめ興味深かった。ただ、司会者は喋りすぎる。作り手にもっと時間を。が、それより、ゲストの社会学者には呆れた。演出家と音楽監督に質問しておいて、彼らの応答を聴く前に「ヒント」を出す図々しさ。自分が「正解」を知っているとでもいうように。自分は教師で二人のクリエイターは生徒のつもりなのか。そもそも「演劇の言葉」をめぐる問題に「正解」などあるのか。これはクイズではないのだ。なんと傲慢な、違う、なんと凡庸な、違う、そう、なんと他者性が欠落した社会学者だろうか。他者性を欠いたありように無自覚のまま、社会学的に研究した成果は、さぞ・・・。
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