チェルフィッチュ×藤倉大 with アンサンブル・ノマド『リビングルームのメタモルフォーシス』2024

リビングルームメタモルフォーシス』 2日目と4日目を観た(9月21日 土曜 14:00,25日 水曜 19: 00/芸劇シアターイースト)。

2021年11月にタワーホール船橋でやったワーク・イン・プログレスは、第1部のみだった。あのときリビングルームの役者たちはシモテ側、演奏者はその真横カミテ側に陣取った。が、写真によれば23年5月のウィーン世界初演と同様、この公演でもリビングルームの位置はそのままで、演奏者は役者たちより手前に配置された。また1部の内容は変わっていないと思うが、続く第2部、第3部は驚きの展開に。

以下、だらだらとメモする。

作・演出:岡田利規/作曲:藤倉 大/出演:青柳いづみ、朝倉千恵子、川﨑麻里子、椎橋綾那、矢澤 誠、渡邊まな実/演奏:アンサンブル・ノマド

音響:白石安紀/音響スーパーバイザー:石丸耕一(東京芸術劇場)/照明:髙田政義(RYU)/衣裳:藤谷香子(FAIFAI)/美術:dot architects/ドラマトゥルク:横堀応彦/技術監督:守山真利恵/舞台監督:湯山千景/テクニカルアドバイザー:川上大二郎(スケラボ)/英語翻訳:アヤ・オガワ/宣伝美術:岡﨑真理子(REFLECTA, Inc.)/プロデューサー:水野恵美(precog)、黄木多美子(precog)/プロダクションマネージャー:武田侑子/アシスタントプロダクションマネージャー:遠藤七海/委嘱:Wiener Festwochen/製作:Wiener Festwochen、一般社団法人チェルフィッチュ/共同製作:KunstFestSpiele Herrenhausen、Holland Festival、愛知県芸術劇場独立行政法人国際交流基金/企画制作:株式会社precog/主催:東京芸術祭実⾏委員会[公益財団法⼈東京都歴史⽂化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)、東京都]/助成:文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業(劇場・音楽堂等機能強化総合支援事業))独立行政法人日本芸術文化振興会/協賛:アサヒグループジャパン株式会社

手前に弦楽カルテット+ファゴットコントラファゴット)+クラリネットバスクラリネット)+チェレスタ、その奥シモテ半分にリビングルームの調度(ソファー、テーブル、サイドボード等)と窓枠がある。

丘の上の家に住む六人家族。一見、家族に見えないが、衣装やセリフからなんとなく分かる。臙脂のガウンを羽織った「父」以外、ジェンダーフリーな言葉遣い。例の感情を抜いた発話と相俟って「感情同化」を許さない。

黒系のきらきらドレス(椎橋綾那):気配を感じる、気配の流れ、生きているものなのか、そうでないのか/緑のスリッパ(青柳いずみ):窓外はひどい雨(cats and dogs)/アノラック(朝倉千恵子):ベランダに毛布を干したままだ/ガウン父(矢澤誠):なんでそんなことをした、普段やらないようなことをするからだ。気配を感じる? 気のせいだ/ヘアバンド母(川崎麻里子):午前に管理会社から立ち退きの、賃貸契約の破棄を匂わす電話があった。ざわざわする/緑のスリッパ:われわれには居住権があり、法律で守られているから心配ない。手紙でガツンと言ってやる…

2 緑のスリッパ:手紙を出したので大丈夫(自信満々)。あれ以降なにも言ってこないのはそのため/母:でも〝ざわざわ〟は止まない、なにも言ってこないがむしろそれを待ってしまう自分…/父:数日前のそんなことまだ言っているのか。 …むしろ新調した毛布で睡眠は改善された云々…

タールを浴びた女(渡邊まな実)登場、舞踏のような動き(踊り)

全身からしたたり落ちるタールは〝オイルまみれの海鳥〟を想起、また歪な動きと呻きは水俣病患者のよう

父:おまえは誰だ、出ていけ! 門扉の鍵は開いていたのか、開けたのは誰だ? …お前は誰だ、あの大雨の被害者なのか、そうなのか、それなら…

タール女:あちこちに穴が空いている…

数日前の突然の土砂降りといい、タールを浴びた異者といい、異常気象や環境汚染を引き起こした人間の行い(経済優先)へのしっぺ返しか

やがてタール女は退場

緑のスリッパ:いまの人はこないだ門の前にいた

父:ははあ、だとしたら、管理人らがわれわれに嫌がらせをして追い出そうとしているのではないか …出ていったか確かめに行く…

アノラック:あいつ(ガウン父)むかつく/きらきら:あたしも/緑のスリッパ:あたしも(me, too)/母:(ややあって)あたしもそうだった(と滔々と不満を語る)

…やがてタール女登場/リビングへ入りソファーの枠に身体を添える/棚の石を取って母に渡し、父を殺すよう示唆

みなタール女の後からカミテへ出ていく。ひとり残ったアノラックは照明の変わったリビングで世界の終わりについて、その再生について語り、出ていく。

タール女たちが、の死体を入れたと思しき黒い袋を引きずってカミテから登場。

世界の終わり、終末——人間世界に、そこにはあちこちに穴が開いている(いた)、別の世界が、自然が侵入し、浸透してくる。空の色彩について…(緑のスリッパ)、終わりの景色

カミテ奥の黒い四角形が… 遠くから二つの点が、大家と管理人が、頭に大きな黒いポンポンを、大きな黒い筒をかぶって、リビングルームへ。ここはいい物件ですね。どうなっているんだ、これは、誰か説明しろ!…声は歪に変形。姿も声も〝向こう〟から見たあり方か。…リビングの家具や照明器具が、タール女によって、他の女たちによって前面に移動され、女らは、演奏者の横に、そのあいだに移動。そして、『消しゴム山』のように、家具(モノ)と自分を同列に置こうとする。音楽の音量が以前より大きくなり、役者のセリフが聞き取りにくいため、つい字幕を見てしまう。…大家の黒いポンポンは黒いバランスボールに座ったまま、跳ねつつ前へ来る。この存在は H. G. ウェルズの『タイムマシン』で80万2千7百1年に航行したタイムトラヴェラーが、さらに3千万年先の未来で出会った「ときどき飛び跳ねる」黒い不気味な生物を想起させる。

音楽は、弦楽器のこするような音、ピチカート、ヴィオラのソロ、コントラファゴットの低音、クラリネットの雨、歪んだ音、チェレスタシロフォンのような響き…。最後は音楽と演劇が文字通り物理的に「並列」されはしたが、実際は、総じて効果音のように聞こえた。

作品のストーリーは、岡田によれば「登場人物たちのごくありふれた、人間中心的なインタレストが容赦なく無化される、というもの」(プログラム)。その無化は、タールを浴びた女によって引き起こされる。これは、自然破壊を止めず気候変動に無策の人間に対し、自然から報復される様を示しているのだろう。父が、娘のデリケートな物言いを「気のせい」と一蹴するシーンや、威圧的な父を妻や娘らがタール女に導かれ(舞台の外で)殺害するなど、いわゆる弱者(女性)を自然の側に近い存在として扱っている点は印象的だった。

瀕死の白鳥 その死の真相』(2021)は環境問題を鋭く抉ったバレエ演劇だったが、本作も気候変動の問題を扱う点で同じ線上にある。岡田自身の言葉では「人間中心的な態度に変容を施」す作品だ。人間とモノとを同列に置き、両者のフラットな関係を創り出そうとした『消しゴム山』(2019)もそう。ここで、唐突ながら、思い出したことがある。

漱石論で批評家としてデビューしたての柄谷行人が、吉本隆明との対談で最も主要な関心をもつテーマについて問われ、こう答えていた。

意識が自由に生みだしていくようにみえるときの、その都度限界性として自然が現れます。あるいはそういうものを「自然」とよびたいわけです。そいつをひっくり返しちゃって自然の側からむしろ意識をやっつけるという、そういうモチーフですね。(「私はなぜ批評家になったか」1970年)。

これを読んだのは80年代だったと思うが、最近の岡田のコメントや舞台から、この「自然の側からむしろ意識(人間中心的)をやっつける」という文言が何度か浮かんできた。意外に両者の〝倫理性〟は共通するところがあるのかもしれない。