新国立劇場バレエ団「ニューイヤー・バレエ」2022

「ニューイヤー・バレエ」の初日と2日目を観た(14日 金曜 19:00,15日 土曜 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

当初はアシュトン『夏の夜の夢』新制作の予定が「新型コロナに係る入国制限等に鑑み〈新制作〉の公演準備を万全の状態で進めることが困難と判断」され(10/13)、ビントレーの『ペンギン・カフェ』に変更となった。『ペンギン』は昨年の「ニューイヤー」演目だが関係者に陽性反応が出て一旦中止となった後、急遽、無観客の無料配信を敢行した。ゆえに本作の生舞台は9年振りとなる。

指揮:ポール・マーフィー(新型コロナ オミクロン株への政府の水際対策強化により来日不可)→冨田実里/管弦楽:東京交響楽団

初日(1階15列中央)定刻が過ぎてもなかなか始まらない。芸術監督が定席に居ない。16列が半分空いている。なにかあったのか…? あれこれ心配したが、高円宮妃の臨席が理由だった。12分ほど遅れてスタート。

『テーマとヴァリエーション』振付:ジョージ・バランシン/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術:牧野良三/衣裳:大井昌子/照明:磯野 睦

出演:[初日]米沢 唯、速水渉悟(怪我のため降板)→奥村康祐[2日目]柴山紗帆、渡邊峻郁

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米沢は丁寧かつリリカルで、内から生命感が湧き出る。初日のロイヤル臨席下でかなりプレッシャーがかかったはずだが、しっかりと責任をまっとうした。バランスのアクロバティックなやりとりもきれいにこなす。奥村も丁寧な踊りで、特に二つ目のソロは好かった。ただ、米沢の相手としては少し身体が小さく感じる。パ・ド・ドゥでのリフトはもう少し高さがほしい。それでも二人の踊りには喜びが感じられた。ブルー系の濃淡を活かした群舞のコスチュームは洗練された美しさ。2列目・3列目のダンサーたちも充実した踊り。冨田指揮の東響は、前半は丁寧かつ慎重に探る感じか。ニキティンのヴァイオリンソロは崩しすぎず綺麗だった。だが、フィナーレの、ホルンのファンファーレから始まる華やかなポロネーズは、もっと迸るような勢いがほしかった。初日は、熱量より規律を優先させたのかもしれない。2日目に期待したい。

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2日目(3階1列中央)。3階からだとバランシンの素晴らしいフォーメーションがよく分かる。初役の柴山沙帆は緊張からかソロで少しよろめいた。それが後を引き、どこか上の空で持ち前の〝ターボエンジン〟も不発。なんとか切り替えて、自分のよさを舞台に捧げてほしかった。渡邊峻郁は悪くないのだが、二人から喜びや気持ちのやりとりが感じられない。この日もフィナーレの音楽は弾けず、こちらの心も浮き上がらない。冨田氏はバレエ経験者らしいから、本作を踊るダンサーの大変さは人一倍わかるだろう。恐らくその分、ダンサーへの気配りが強まり、オケの自然発生的な高揚や勢いの増大が制御されてしまったか。残念。

ペンギン・カフェ』振付:デヴィッド・ビントレー/音楽:サイモン・ジェフス/美術・衣裳:ヘイデン・グリフィン/照明:ジョン・B・リード

[キャスト]ペンギン:広瀬 碧/ユタのオオツノヒツジ:[初日]木村優里 [2日目]米沢 唯、井澤 駿/テキサスのカンガルーネズミ:福田圭吾/豚鼻スカンクにつくノミ:[初日]五月女遥 [2日目]奥田花純/ケープヤマシマウマ:奥村康祐/熱帯雨林の家族:[初日]小野絢子&中家正博(交代理由は不明)→小野絢子&貝川鐵夫 [2日目]本島美和&貝川鐵夫/ブラジルのウーリーモンキー:福岡雄大

2013年の再演時ほど詳しく書けないが、簡単にメモする。

初日。こんな作品はビントレーにしか創れない。2010年に初めて見た時もそう思った。楽しくユーモラスだがラストは物悲しい。一見すると子供向けみたいだが、人間や社会への深い洞察と問題意識に裏打ちされている。かといって、教訓めいた臭味や啓蒙的な〝上から目線〟など微塵もない。喩えるなら最上質の絵本か。ビントレーが来日指導すれば、細かなニュアンスは多少とも修正されるだろうが、これはこれでよい。舞踏会のシーンで、初めは誰か分からず、好いダンサーだなと思ったら小野だった。さすが。浜崎恵二郞のタキシードの踊りはとてもカッコイイ。豚鼻スカンクにつくノミの五月女と民族舞踊を踊るときの浜崎は三枚目。その落差が楽しい。ただ、ユタのオオツノヒツジの木村は初役らしいが、自分を誇示するこれ見よがしの踊りは作品のコンセプトから食み出していた。

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2日目。米沢のユタのオオツノヒツジには目を見張った。踊りが伸びやかでキレもあり、リリカルな艶が内側からおのずと出てくる。相手の井澤駿は、昨日とは別人のよう。こうも変わるものか。テキサスのカンガルーネズミの福田圭吾は、後半の音楽とのタイミングが改善された。豚鼻スカンクにつくノミの奥田花純は初役。楽しそうに動き回り、少し様式から外れ気味だが好い。ケープヤマシマウマの奥村は、直前のモリス・ダンスで原が落とした帽子を振りの中でカミテの袖へ投げ込んだ。見事!「気高く誇り高い」ありようも好い。カモシカの頭蓋骨を被りシマウマのドレスを身に纏ったモデルたちの、例の(金井克子張り)の手の動きが初めて腑に落ちた。自分の顔の前で黒手袋の手を動かすのは、シマウマが撃ち殺されている現実を、〝私たちが〟シマウマを殺している現実を、見ないという意思表示ではないか。見ようと思えば見えるはずだが、見ないという、われわれの自己欺瞞的な無関心。熱帯雨林の家族のシーンは、貝川が登場し、本島と子役が出てくると、舞台の空気が一変。それだけでグッときた。彼らの穏やかな生活。家族愛。無垢。それが開発等により破壊されていく。シーンの最後でシモテ寄りに三人が佇み、客席の方を哀しげに見つめる。痺れた(本島は舞踏会の踊りも大きくて見栄えがした)。ブラジルのウーリーモンキーの福岡雄大はワイルドで生きのよい踊り。さすが。雨(酸性雨?)が降ってくる終曲については13年のブログに譲りたい。ただ、みんなが箱舟に入った後、ペンギンの広瀬碧だけ取り残されるシーンについて一言。昨年の配信では、初演・再演のさいとう美帆の残像があったせいか、少し物足りなさを感じた。が、今回、自分の運命(絶滅)を知らず快活に動く広瀬ペンギンを生の舞台で見て、こころが動いた。むしろこの、無意識で、無垢な快活さこそ、ビントレーが目指した造形かもしれないと。今思えば、さいとう美帆のペンギンには、いくらか自己憐憫が混じっていたようにも思う。それにしても作品理解の深い米沢唯と本島美和が加わるだけで、舞台全体が見違えるほどよくなった。

34年前の初演以来、環境問題は悪化の一途をたどり、いまや待ったなしの〝気候危機〟だ。『ペンギン・カフェ』の上演意義はますます深いといわざるをえない。

幕切れで、カーテンが完全に降りきるまで本作に込められたものを静かに味わう観客がひとりでも増えていきますように。