新国立劇場バレエ団 ダンス『SHAKESPEARE The Sonnets』2020【一部修正】

Shakespeare THE SONNETS』の2日目/千穐楽を観た(11月29日14:00/新国立中劇場)。初日の小野絢子・渡邊峻郁の舞台も見たかったが、BCJの定演と重なり断念。この2日目もオペレッタ《こうもり》とぶつかったが、こちらは次週の土曜日に振り替えた。

構成・演出・美術原案:中村恩恵首藤康之

振付:中村恩恵

音楽:ディルク・P・ハウブリッヒ

照明:足立 恒

音響:内田 誠

出演:首藤康之、米沢 唯

 2011年、12年とはまったく異なる印象。ひとり踊り手が代わるだけで、こんなに違って見えるのか。今回は、詩人=劇作家が詩を書き、人物を造形するクリエーションと、子孫(DNA)を後世に残していく行為が重なって見えた(154篇から成るシェイクスピアの『ソネット集(十四行詩)』は大半が美青年に関するもので、1〜17番は「きみ」(青年)の美を子孫として残せと勧める内容。ダークレディが登場するのは127番からで、美青年との三角関係を含む愛憎がドラマティックに歌われる。私の愛誦詩は29番)。

薄暗い舞台のシモテに本と羽根ペンが置かれた文机、奥のややシモテに鏡台、奥ややカミテに洋服のボディスタンド。すべて以前と同じセット。

首藤は腕が長い。素肌にヨウジヤマモトを身に纏い、両腕を広げてページをめくり、ソネットを朗読する(たぶん小田島雄志訳)。

私には2人の恋人がいる。

慰めになる人と、絶望させる人と(#144)

〝気〟のこもった素早い手の動きは、創作の苦悶を見事に表出した。蝋燭の火が灯る鏡台は楽屋を想起させる。創作の舞台裏か。そこにベージュの下着(?)姿で座る人形然とした米沢を、詩人は自分のイメージ通り生きた女に造形していく。ロミ&ジュリというよりコッペリウスと人形のよう(私にはこのあともロミ&ジュリは見出せず)。女は指輪を嵌められた途端に硬直し、男からすり抜けて行く。代わって黒を着た奔放なダークレディが登場。ここで米沢はオディールのようにもっと挑発的でもよかったか。

昔の人は黒を美しいとは思わなかった。

思ったとしても美の名ではよばれなかった(#127)

詩人が顔に墨を塗りオセローとなってデズデモーナと踊る。床の照明が白黒のチェック柄になり、オセロゲームの盤上に見えた。ハンカチを契機に責め殺されるデズデモーナ。首藤が実にコミカルな動きで、死んだデズデモーナを薔薇でくすぐるとパックとタイターニアに早変わり。面白い。タイターニアが洋服のボディスタンドに抱きつくシーンは、今回も笑えた。もちろん妖精パックの媚薬で彼女が驢馬に恋する可笑しさを狙ったものだが、「恋は盲目」を見事に表象しえて秀逸だった。シャイロックとお金のシーンは今回も疑問(ユダヤ教徒シャイロックはたしかに金貸しだが、なぜそうなのか。そのユダヤ人がなぜキリスト教徒に嫌われるのか。シャイロックが借金の形に肉1ポンドを要求するのは、キリスト教徒への積年の恨みから。結局、その何倍もの仕返しを食らうが。シェイクスピアは『ヴェニスの商人』を喜劇として書いたとしても、シャイロック=金の亡者では、ユダヤ人もシェイクスピアも浮かばれまい)。

鏡をみてそこに映るあなたの顔に言いなさい。

今こそ、その顔がもう一つの顔を作るときだと(#3)

詩人が美青年に結婚を促す三場では、共に鬘で父子となる。これもある意味クリエーション(再創造=再生産)だ。その後二人は文机の上下で相手をトントンとノックする。ここはとてもよい。世代(親子)間のやりとり(対話)を象徴的に表しているように見えた(今回初めて気がついた)。その後、二人は机の上に片足ずつ置いて靴紐を解き、服を脱ぐ。このシーンも印象的。ここからあとは、親と子の自然の別れが表象されているように感じた(振付の意図は男女なのか)。縦(前後)の位置で、米沢が振り向くと、静かに去って行く首藤。やがて、詩人のコスチュームを身につけた首藤が、手前でゆっくり本を閉じる。ほぼ同時に米沢は後方の鏡台の前で蝋燭を消し、ゆっくり鏡を閉じる。『ベートーヴェンソナタ』の幕切れを思い出した。終演=終焉(死)=再生へ? 米沢は中村恩恵が乗り移ったかのよう。踊りもそうだが、あり方までそう見えた。首藤は、終始、気が漲っていた。これが最後なのか。今日は首藤康之に敬意を表し、ヨウジヤマモトで舞台を見届けた。

中村恩恵は、創作者の苦悩と喜びに強く共振し、共感するのだろう。本作(2011,2012,2020)だけでなく『小さな家』(2013)も『ベートーヴェン・ソナタ』(2017,2019)もそうだった。次の創作が楽しみだ。