『フェルメールと風俗画の巨匠たち――鼓舞と対抗』@ダブリン 2017/画家の創意と劇作術

2017年8月15日(火)15:40 Vermeer and the Masters of Genre Painting: Inspiration and Rivalry@National Gallery of Irland, Dublin

昨年の8月初旬から約一ヶ月間アイルランドのダブリンへ出張。中心街を歩いていると、偶然フェルメール展のフラッグが目に入り、見ることにした。
昨年東京で開催の「フェルメールレンブラント展」は混雑が予想され敬遠。ずいぶん前だが滞在先の大阪で開かれた「フェルメールとその時代展」も長蛇の列に諦めた記憶がある(調べたら2000年だった)。フェルメールはダブリンでも人気で日時の予約を要したが、見る気が失せる混み合いはなかった。
本展はフェルメール10作品(現存の約三分の一で史上3番目に多い)と同時代の巨匠たちによる「風俗画」をテーマ別に集めた大変興味深い企画で、見せ方も秀逸だった。作者名やタイトル等が作品からかなり離れた上方壁面に表示されていた。まず各展示室のテーマに関する説明文(これは目線よりやや下)を読み、絵をじっくり見る。視線を外し見上げると、そこで初めて作者と題名が判明するという寸法だ。お陰で、フェルメールを同時代のオランダ作家たちと先入観なく比較できたし、何より個々の作品を〝純粋に〟味わえた。しかもテーマ設定と説明文がどれも面白い。なかでも《デュエットへの誘い》と《見る者に背中を向ける》では劇作(演出)術と共通する点があり、かなり興奮した。以下、後で取り寄せた図録を頼りに思い出しながらメモしたい。

《デュエットへの誘い》は、室内でクラヴィコード/ヴァージナル(卓上ハープシコード)を弾く若い女性を描いた数点が対象だ。まずはヘリット・ドウ『クラヴィコードを弾く女』(Gerrit Dou, Woman at the Clavichord c. 1665 )と、同作に鼓舞されたヨハネス・フェルメール『ヴァージナルの前に座る若い女(Johannes Vermeer, Young Woman Seated at a Virginal c. 1671-74 )。共に女性がこちら(見る側)に視線を向け、ヴィオラ・ダ・ガンバが手前に立て掛けられている。これらは、見る者を演奏に加わるよう誘う仕掛けらしい。たしかに誘われているような気がしてきた。どうぞガンバを手に取ってください、一緒に演奏しましょう、と。ドウ(左)ではヴィオラ・ダ・ガンバや座られるのを待っている椅子の他、ワインや楽譜や鳥籠など、見る者を誘う小道具がいろいろと揃っている。
一方、フェルメールの『ヴァージナルの前に座る若い女』(右)では小道具が少し減り、同じくフェルメール『ヴァージナルの前に座る女』(Vermeer, Woman Seated at a virginal c. 1671-74 )に至っては、そうした小道具はすべて削られている。解説者(Marjorie E. Wieseman)によれば、後者の焦点は人物や楽器などにはない。これらのオブジェは意図的にぼかされている。焦点はむしろ光を放つ木理の粗い背後の壁面にある、と。前二作のように「ここが親密な場所であることを示すための分厚いカーテンも、籠の鳥も、柔らかな光もまったく必要ない」。なぜなら「すでに私たちはこの女性の私的な世界に立ち入ることを許されている」から。なるほど! もちろん構図や小道具を使って、見る者の参加を促すドウの工夫も素晴らしい。劇作家が観客の想像力を導く手法とよく似てもいる。だが、フェルメールはドウの構図を参考にしながら、さらに別次元の境位へと飛翔する。まるでシェイクスピアみたいだ。彼の戯曲も題材(物語等)を種本等から採りながら、他の誰とも違う〝オリジナル〟な作品を創り出したといえるから。

次のテーマは《見る者に背中を向ける Back to the Viewer》。この展示室には、文字通り「背中を向ける」人物(女性)を描いた作品が集っている。その筆頭がヘラルト・テル・ボルフ『色男の会話(父の訓戒)』だ(Gerard ter Borch, Gallant Conversation (‘The Paternal Admonition’) c. 1654 )。描写力も見事だが、人物たちのありようがミステリアスで思わず見入ってしまう。一見、右に座った男性が後ろ向きに立つ女性を諭しているかにみえる(本作はかつて「父の訓戒」と呼ばれた)。とすれば、二人の間でワインを飲んでいるのは女性の母で男の妻なのか? それにしては男がいくらなんでも若すぎる。ならば、この男は右手を上げて何を話しているのか。三人の関係は・・・? 実際、絵だけ見ていると、どんどん想像が膨らんでいく。現在のタイトルは ‘Gallant Conversation’。この ‘Gallant’ も紛らわしいが、これは brave ではなく charmingly attentive and chivalrous to women の意で、 flirting も含意しているだろう。どうやら、この部屋は売春宿で、兵士の服装をした男(chivalrous 騎士道的?)は白いドレスを身に付けた売春婦に値段の交渉をしているらしい。奥に見えるのはカーテン付きのベッドで中央の女はやり手婆に違いない。「父の訓戒」から「色男の会話」とは大きな変わりようだ。なにしろ、女性は後ろ向きで表情が見えないため、男の話にどんな反応を示しているのか皆目わからない。結果、光沢のある美しい衣装や、剣を吊るした男の裕福そうな身なり、さらに右端の犬の存在等に目を奪われながら、あれこれと想像力を巡らせることになる。
この画家には「技術的な手腕や話術のみならず、人間関係の力学に対する感受性」がそなわっていた、と解説者(Arthur K. Wheelock, JR)は言う。そもそも「感情や情動は、社会的な場面では、包み隠さず率直に表出されることなど滅多にない」。ウィーロックによれば、こうした機微をよく理解していたテル・ボルフは「感情の両義性や曖昧さを絵画の中に翻訳する方法を考案した」。つまり、「彼は優れた小説家のように、筋立てをあえて未決のままとどめることで、見る者が進んで物語に入り込み、筋書きを完成させるよう促したのである」。


ウィーロックは小説家を引き合いに出しているが、ここは「優れた劇作家のように」と言いたいところ。劇作家(演出家)の平田オリザが俳優の内面や精神にいっさい介入しないのは有名だ。劇作もそうだが、演出でも、役者の立ち位置や間の取り方、登退場や沈黙等を厳密に設定することで、リアルな舞台を作り上げる。役者が舞台の要所で〝見る者(観客)に背中を向け〟て演技(発話)するのも、その内面や感情を想像させる平田お得意の手法だった。見る者に、登場人物の感情や心情を想像するよう促す〝余白〟を巧みに仕組むこと。これは、ウィーロックが指摘するテル・ボルフの「筋立てを未決のままとどめる」手法と趣旨は同じである。考えてみれば、絵画はキャンバスの上に塗り重ねられた絵の具の層に過ぎない。たとえ人物の形象が描かれても、そこには「内面」も「精神(心)」もありはしない。にもかかわらず、そこに血が通っているかのように見える「リアルな表象」を作り出すにはどうすればよいか。そもそも画家と劇作家の課題自体が重なっていたのである。
テル・ボルフの本作は他の画家たちに大きな影響を与えたらしい。ペーテル・デ・ホーホ『二人の男と杯を交わす女』(Pieter de Hooch, Woman Drinking with Two Men c. 1658 )やヤコブ・オクテルフェルト『セレナード』(Jacob Ochtervelt, The Serenade c. 1669 )なども、後ろ向きの女性を軸に据えた構図が見られる。いずれも「完結しない開かれた物語が有する情動的な力を活用」しようとした作品だ(ウィーロック)。「完結しない開かれた物語が有する情動的な力」(the emotional power of open-ended narratives)。これは、風俗画のみならず、演劇などの劇場芸術を見極める際にも、かなり有効な手掛かりのひとつとなりそうである。