藤原歌劇団《ルチア》2017/客席のアンフェアな反応

《ルチア》の初日を観た(12月9日 14:00/Bunkamura オーチャードホール)。
このプロダクションは2011年の再演らしいが、見たのは今回初めて。遅くなったが、プロットを追いながら簡単にメモする。

G.ドニゼッティ作曲《ルチア》オペラ2部(全3幕)<字幕付き原語上演>
総監督:折江忠道
指揮:菊池彦典
演出:岩田達宗

出演
ルチア:光岡暁恵(12/9)/坂口裕子(12/10)
エドガルド:ジェイ・クォン(12/9)/西村 悟(12/10)
エンリーコ:カルロ・カン(12/9)/谷 友博(12/10)
ライモンド:伊藤貴之(12/9)/東原貞彦(12/10)
アルトゥーロ:小笠原一規(12/9)/曽我雄一(12/10)
アリーサ:河野めぐみ(12/9)/二瓶純子(12/10)
ノルマンノ:小野弘晴(12/9)/青柳 明(12/10)

合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団
主催:公益財団法人日本オペラ振興会Bunkamura

舞台には大きな橋が中央奥から手前に傾斜して掛けられ、その頭上から切っ先が下向きに吊されている。これは「能舞台の変型」で「現世と異界を結ぶ巨大な橋」らしい(演出ノート)。ほとんどこの橋の上で演じ歌われるため、空間の使い方がかなり限定的。しかも歌手は常に正面を向いて歌う。演奏会形式のように感じたのはそのためだろう。菊池彦典の棒は熱い。イタリアものにはぴったりで、勘所を外さない。東フィルはそんな指揮に寄り添って好演した。
第1部 別れ
第1幕 第1場 レーヴェンスウッド城の庭園
ルチアの兄エンリーコ役のカルロ・カン(バリトン)は端正な味を残しつつ熱い歌い振り。すこし大仰といえなくもないが(彼我の文化的差異か)よく通る声で気持ちの入った質の高い歌唱。
第1幕 第2場 城のそばの泉のある庭園
ルチアの光岡暁恵(ソプラノ)は初めのアリアは丁寧で少し抑え気味に歌った。恋人エドガルドとの掛け合いは素晴らしい。特に指輪を渡す前後の歌唱は見事。エドガルド役のジェイ・クォン(テノール)も絶品の歌唱。強い声を張り上げるようなあり方とは別次元。高音もふっくらと響かせる。声を出すというより、歌をうたっている(当たり前だが)。光岡とクォンのデュエットは至福の時間だった。
―休憩20分―
第2部 婚約
第1幕 第1場 アシュトン卿の居室
エンリーコ(カン)と部下のノルマンノ(小野弘晴)。偽の手紙を読んだルチアの嘆き。兄のため、家のためにアルトゥーロとの政略結婚を強いられるルチア。家庭教師のライモンドは運命を受け入れるようルチアに勧める。
第1幕 第2場 大広間
新郎のアルトゥーロ役 小笠原一規(テノール)がよい味を出している。円満な顔にカイゼル髭を生やしたオタクタイプの造形。なるほど、ルチアは結婚したくないだろう(もちろん理由は別にあるが)。それでも豪族の当主として、声はたっぷりと豊かに響く。浮かない顔のルチア。そこへエドガルドが乱入し、エンリーコと一触即発に。だが、ライモンドが割って入る。結婚の署名を見せられたエドガルドは裏切ったルチアを責める・・・。
藤原の歌手たちは、主演以外もみなよく声が出る(これも当たり前か)。特にアルトゥーロの小笠原一規の演技には笑ったし、歌唱には感心した。ライモンドの伊藤貴之(バス)は他とのやり取りでは悪くないが、ソロではもう一段高い強度が欲しい。光岡ルチアはtutti 等の幕切れで高音を惜しまずかつ楽々と出していた。(この日の客はあまり拍手しない。回りを見ても叩いていない人が大勢いる。なぜ?)
―休憩20分―
第2幕 第1場 ヴォルフェラーグの塔の一階の広間
戻って来たエドガルド(クォン)。そこへエンリーコ(カン)が決闘を申し込むために登場。ルチアが婚礼のあと寝室へ入ったと嫌みたっぷりに言う。敵対する二人は夜明けに墓地で落ち合う約束を交わす。韓国人歌手同士のやり取りは聞き応えがあった。
第2幕 第2場 レーヴェンスウッド城の広間
祝宴の最中にライモンドが駆け込み、新床でルチアが花婿を刺殺したと伝える。この報告ももっと強度が欲しい。発狂したルチア登場。光岡ルチアは第1部とは明らかに異なる非日常的な声の響きを自在にコントロールして歌う。フルートとの掛け合いも見事。ハイトーンも正確かつ美しい。今回光岡は全幕の構成を考えた上で、その時その場にふさわしい歌唱を実現していた。素晴らしい。
第2幕 第3場 レーヴェンスウッド城を遠望する墓地
決闘の場所へ来たエドガルドは死ぬつもりでいる。そこへルチアの発狂を悲しむ人々が通りかかり、さらにライモンドがルチアの死を告げに来る。この世での希望を断たれたエドガルドは天国でルチアと再会すべく短剣で自死する。演出についていうと、エドガルドが橋の手前に立っているとき、ルチアの発狂に悲しむ人々も橋の向こうから手前にやって来る。これでは、不自然のみならず、どこかせせこましい印象を受ける。そもそも「現世と異界を結ぶ橋」の意味づけがまったく機能していない。縦(奥から手前)の動きのみならず、横の動き、つまり袖から袖へ歩かせることもできたはず。いずれにせよ、空間をもっと広く用いれば、ドラマにも奥行きと広がりを持たせることができたのではないか。

カーテンコールについて一言。ルチアを見事に歌いきった光岡暁恵には、正当にも大きな喝采が上がった。一方、エンリーコ役のカルロ・カンには、あれだけの歌唱と熱演にもかかわらず、喝采はおろか拍手もまばらの冷遇。エドガルドを歌った若手のジェイ・クォンにこそ多少の声は上がったが、拍手もbig handからは程遠いありさま。歌唱の質の高さからすれば、光岡と同等のブラボーが飛んでもおかしくない。これでは、先の光岡への歓声が信用できないことになる。国籍如何にかかわらず、公平に評価できない観客のもとで歌手は成長できるだろうか。演出を除けば大変よい上演だっただけに残念かつ情けない。実に後味の悪い舞台となった。今回、舞台芸術の醍醐味が「共感」や「共有」にあることを、その不在から思い知らされた。