《ジークフリート》ハイライトコンサート ―邦人歌手による―/エレクトーンの伴奏について

オペラ関連の更新は一年半振りか。最後にアップしたのは昨年の1月で2015年12月公演の《妖精の女王》。新国立劇場のオペラ公演は、昨年まで13年間初日を同じ席で見てきたが、諸般の事情で継続せず。2016年10月からアラカルトにしたが、それでも《蝶々夫人》以外はすべて見ている。ただ、手書きメモは残しても、なかなかアップできなかった。演劇やバレエを優先させたから? それも大して書いてない。仕事が忙しかったのはたしかだが、怠け癖が一番の理由。
邦人カバー歌手たちによる《ジークフリート》のハイライトを聴いた(5月17日 19:00/新国立中劇場)。本公演の初日は6月1日で、2日目をすでに見たのだが、まずはハイライト版の簡単なメモから。

指揮:城谷正博

キャスト
ジークフリート:今尾 滋
ミーメ:青地英幸
さすらい人:大塚博章
アルベリヒ:友清 崇
ファフナー:志村文彦
エルダ:石井 藍
ブリュンヒルデ:橋爪ゆか
森の小鳥:三宅理恵

エレクトーン:西岡奈津子/小倉里恵
パーカッション:高野和彦/古谷はるみ
協力:ヤマハエレクトーンシティ渋谷/東京フィルハーモニー交響楽団/日本ワーグナー協会

演奏箇所
・第1幕第3場より(ジークフリート、ミーメ)<息子と養父、ノートゥング再生>
・第2幕第1場(アルベリヒ、さすらい人、ファフナー)<因縁の仇同士の邂逅>
・第2幕第2、3場より(ジークフリートファフナー、森の小鳥)<異界の登場人物>
<休憩>
・第3幕第1場(さすらい人、エルダ)<主神と叡智の女神、神々の対話>
・第3幕第3場より(ジークフリートブリュンヒルデ)<愛を獲得する二人>

【前半】ミーメ役がノーブルに歌うことに違和感。ジークフリートは野人としての感じが出ている。アルベリヒは歌唱も芝居もあり方もたいへんよい。さすらい人はドイツ語がカタカナのように聞こえる。歌唱ももっと・・・。ファフナーは前半は姿を見せず舞台袖からの増幅された声のみだが、よい。森のシーンでのジークフリートは素晴らしい。歌唱が尻上がりによくなり、ヘルデンテノールの響き(輝き)も増し、楽しめた。森の小鳥も姿、動きがいかにもでOK。
【後半】エルダの歌唱は役柄に見合う奥行きが出るとよい。ジークフリートは健闘した。ブリュンヒルデは声は出るのだが、どこか、表情や身体的なあり方に違和感が付きまとった。メイキャップはわざと普通にしたのか(神性が奪われたあとだから?)。
とても興味深い公演。指揮者城谷正博の情熱は相変わらずだが、今回はそこにエレクトーン奏者の西岡奈津子と小倉里恵が加わった。二人はフルスコアを見ながら(頭で転調して)演奏するらしい。指揮者やコレペティトゥアと共通の能力を有する人達なのか。たしかにオケの音がした。弦や管楽器の音色はいうまでもない。特にハープやピチカートなどはかなりリアルだった。ただ、指揮者がその場で気持ちの高まり(“気”)を演奏家に伝えても、それがじかに音の変化として現出しないような印象を受けた。ピアノ同様、指のタッチでも変化は出るはずだが、あまり感じ取れなかったのだ。たしかに音量は(たぶんペダルで)増大するのだが、その変化はまさにアンプのヴォリュームを上げたような感じ。変化に臨場感がない。その点、ティンパニーやシンバル等のパーカッショニストを二人(高野和彦・古谷はるみ)加えたのは大変効果的。こちらの“触覚”が刺激された。エレクトーンの音は触覚を刺激しないのか。いまここで演奏しているからこそ生まれる感触が、時空間を共有している聴衆の触覚にも作用する量が、少ないように感じた。聴覚だけで満足するなら再生機で聴けばよい。この点、弦・管・打楽器から成るオーケストラは、聴衆の身体全体を微細に共振させる。なぜこれほどオペラやクラシックコンサートに引き寄せられるのか、再確認することが出来た。