俳優座プロデュースNo.102『十二人の怒れる男たち』2017【追記】+脚注

十二人の怒れる男たち』の三日目を観た(5月19日 19:00/俳優座劇場)。
このプロダクションで見るのは三回目か。初めは2011年。このときは#8のセリフが何度も止まりハラハラした記憶が。二回目は2015年。見る側の状況(体調等々)もあるが、あまりしっくりこなかった。今回はもっとも集中して見ることができた。以下、簡単に感想をメモする。

作:レジナルド・ローズ(1920-2002)
翻訳:酒井洋子
演出:西川信廣
美術:石井強司
照明:桜井真澄
音響:勝見淳一
衣裳:山田靖子
舞台監督:泉 泰至
演出助手:道場禎一
企画制作:俳優座劇場


出演
陪審員1号[陪審員長]:塩山誠司(俳優座)/2号:岸槌隆至(文学座)/3号:青木和宣(文化座)/4号:瀬戸口 郁(文学座)/5号:渡辺 聡(俳優座)/6号:山本健翔(劇舎カナリア)/7号:古川龍太/8号:原 康義(文学座)/9号:金内喜久夫文学座)/10号;柴田義之(劇団1980)/11号:米山 実(文化座)/12号:溝口敦士(テアトル・エコー)/守衛:田部圭祐(フリー)/裁判長の声:矢野 宣(俳優座


芸術文化振興基金助成事業

本作は元々アメリCBSのテレビドラマ・シリーズ「スタジオワン」の一作として生まれた(50分/1954)。翌年シャーマン・L・サージェルが舞台版に改作。さらに翌年、ローズ自身の脚本、ヘンリー・フォンダの主演・プロデュースで映画化された(1956/シドニー・ルメット監督)。俳優座制作の本公演は、1965年にローズ自身が演劇用に書き直した版を翻訳したものだと思われる。初演は1995年とのこと。
キャストは#2(岸槌隆至)と#5(渡辺聡)が前回と入れ替わったらしい。フレッシュな二人を含むワキがぐっとしまり、ドラマに生気が吹き込まれていた(本作に主役も脇役もないが)。みなキャラ造形が的確で、陪審員長はいかにも高校のフットボール部の熱血コーチだし、#6は年寄りを大事にする職人に見えるし等々・・・。声がデカい偏見屋の#10(柴田義之)が#2に発する、「あんたはただ、インテリってやつらの思い通りにされてるだけじゃないか」や、無責任な#7(古川龍太)が時計職人の#11(米山実)に浴びせかける「この東ヨーロッパの移民野郎!」等のセリフは、時節柄、とてもアクチュアルに響いた(「東ヨーロッパ」は今回付け加えられた?【実際は95年の初演時から変わらず同じとのこと。昨今の欧米の状況がこうした言葉の響きを際立たせたらしい】*1 )移民(難民)の#11が、個人的な都合(ヤンキーズの試合のチケットを持っている)で投票を変える#7に、その真意を決然と質すシークエンスにはグッときた。気温が上がっても三つ揃いスーツの上着を脱がないペダンティックな#4(瀬戸口郁)のキャラ造形は相変わらず見事。「有罪」側での#4の存在はドラマの肝だ。老人役#9(金内喜久夫)の飄々としたユーモアは絶妙で、緊迫したなか一服の清涼剤になっていた。さすが。ラストで醜態をさらした#3(青木和宣)に、コート掛けから上着と帽子を取ってきて#3に渡す役を、根が善良な#2(素晴らしい造形)に割り当てた点は適切だと感じた。ローズ自身の舞台版(改訂)では、対決相手の#8がこの役を担い、ある種の「和解」を暗示する。が、今回の舞台を見ると、中間点(一幕の終わり)で#8(原康義)が#3に「サディストだ」といって非難する口調はかなり激しく、感情を抑えきれない感じ。そもそも、いわゆる「正義の味方」のキャラ造形は目指していなかった。ローズが意図した路線でいくと、#8がノーブルな「騎士」になってしまい、いまやリアリティを欠いてしまうだろう。現実には、至る所に「分断」や「亀裂」が走り、「和解」などはその兆候すら見当たらない。今回の舞台が以前よりリアルに感じたのは、俳優たちの熱演はもとより、このような現実のコンテクストを演じる側と見る側が共有していたからかも知れない。
本公演は、この後、5月24日〜6月15日は東北を、11月7日〜12月25日は九州を巡業するらしい。

*1:さらにいえば、あのセリフは、実際は「どうだい、この移民野郎」、「東ヨーロッパの出稼ぎ野郎、ドタマカチ割ってやる」となっていたことを俳優座劇場のJ氏にご教示いただいた。今回の体験から、いかに人間の脳が少しのインプットに多量の主観(価値観・思い込み・バイヤス等々)で補い、事実を歪めるかを、再認識させられた。見る行為にまつわる「ゆがみ」や「ゆらぎ」について、神経生理学者の池上裕二氏は『進化しすぎた脳』(2004/2007)で次のように言っていた。「網膜から上がってくる情報は20%だけ、そして、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとって15%だけ。だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算をすればよいわけだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部の世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。こうしたことを考えると、感覚系の情報処理に自発活動のゆらぎが強烈な影響を与えてもおかしくないよね(講談社ブルーバックス,351-52頁)。同じ舞台を見ても、そこからのインプットが「全体の3%しか」ないとすれば、「97%」を占める「脳の内部情報」による「自発活動のゆらぎ」から、人によってまったく異なる評価や感想が出てくるのも頷ける。