新国立劇場バレエ『ラ・シルフィード/Men Y Men』 ブルノンヴィル的快楽の不在

ラ・シルフィード/Men Y Men』を観た(2月6日 13:00, 18:00, 11日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。
ラ・シルフィード」全4キャストのうち、3キャストを見たが、菅野・長田の日だけはどうしても都合がつかず断念。本作はジェイムズ次第だと思うだけに、菅野のジェイムズをぜひ見たかった。

「Men Y Men」
音楽セルゲイ・ラフマニノフ
編曲:ギャヴィン・サザーランド
振付:ウエイン・イーグリング
舞台監督:伊藤 潤
指揮:ギャヴィン・サザーランド
管弦楽:東京交響楽団

6日13:00/7日
八幡顕光 江本 拓 中家正博
池田武志 木下嘉人 林田翔平
福田紘也 宝満直也 宇賀大将

6日18:00/11日
マイレン・トレウバエフ 貝川鐵夫 福田圭吾
輪島拓也 小口邦明 小柴富久修
原健太 郄橋一輝 渡部義紀

出演:新国立劇場バレエ団

初日マチネ。音楽はラフマニノフピアノ曲『幻想的小品集』より「エレジー」Op. 3-1と『コレッリの主題による変奏曲』より「主題〜第7変奏」Op. 42を今回来日した指揮者のサザーランドがオケ版に編曲したもの。上半身裸の男たち。前半は8人、後半は9人。闇の中から浮かび上がる。後半、次々に上手から下手へ通り過ぎていく男たち。アラベスクを次々に。白百合の花束を持った者、持たない者。供花か。誰のため? 中家正博のアラベスクは体温が高そうで美しい。池田武志はエネルギッシュでキレもあり、初めて頬が弛んだ。宝満直也は雰囲気がある。『ジゼル』の前座用に創ったからか、深いアラベスクも、白百合も、薄闇の照明下で次々にきりもみ回転し床へ倒れる幕切れのシークエンスも、『ジゼル』を想起させる。だが15分で終わり。いくらなんでも短すぎないか。
ソワレ。1階15列目から見た。いつもながら、カーテンコールでカーテンを降ろすタイミングが遅い(舞台監督:伊藤潤)。中央のイーグリングが再度前へ出て挨拶しようとした矢先に降りてくる間の悪さ。カーテンはつねに舞台上のアーティストたちがどう振る舞うか早めに分かるよう配慮すべき。それにしても、たった15分の作品制作のためにイーグリングを呼んだのか。その結果、向いていないと思われるサザーランドが『ラ・シルフィード』を振ることに。
11日。本作は『ジゼル』の前座であればもっと効果的だったろう。15分の舞台ののち、25分休憩。

ラ・シルフィード
音楽:ヘルマン・ルーヴェンシュキョル
振付:オーギュスト・ブルノンヴィル
装置・衣裳:ピーター・カザレット
照明:立田雄士
監修(演出):大原永子
舞台監督:伊藤 潤
指揮:ギャヴィン・サザーランド
管弦楽:東京交響楽団

キャスト
シルフィード:米沢 唯 (6日M)/細田千晶 (6日S)/長田佳世 (7日)/小野絢子 (11日)
ジェイムズ:奥村康祐(6日M)/井澤駿 (6日S)/菅野英男 (7日)/福岡雄大 (11日)
グァーン:福田圭吾 (6日M/7日)/木下嘉人 (6日S/11日)
エフィ:寺田亜沙子 (6日M/7日)/堀口 純 (6日S/11日)
マッジ:郄橋一輝 (6日M/7 日)/本島美和 (6日S/11日)
アンナ:丸尾孝子(6日M/7日) フルフォード佳林(6日S/11日)
ナンシー:益田裕子 (6日M/7日)/飯野萌子 (6日S/11日)
2 人の友人:清水裕三郎 原 健太 (6日M/7日)/中家正博 池田武志 (6日S/11日)
第1 シルフ:堀口 純 (6日M/7日)/寺田亜沙子 (6日S/11日)
児童バレエ:日本ジュニアバレヱ(指導:鈴木理奈)

今回の『ラ・シルフィード』は一応かたちはできているように見えるが、ブルノンヴィル的快楽がほとんど感じられなかった。なぜこうなったのか。おそらくブルノンヴィル専門の指導者(ソレラ・エングルンドやフランク・アナセン等)を呼ばなかったからだろう。ダンサーたちの頑張りを考えると大変残念だ。以下の不満は、したがって、ダンサーに起因するのではなく、自前の指導演出のみでいけると判断したバレエ団の認識不足に帰する。
初日マチネ。序曲。ホルンの重奏。フューネラル。ちょっとグッときた(個人的文脈から)。チェロのソロもよい。ヴァイオリン群はもっと潤いがほしいが。オーボエもよい。オケは技術的に瑕疵はあまりない。シルフィードは米沢唯。役としての一貫性は感じる。ジェイムズは奥村康祐。芝居はどうか。マッジの高橋一輝は物足りない。身体の動き、杖をついて歩く動き等々、すべて細かなニュアンスを欠いている。なにより小さく見える。マッジは本作のかなめであることが初めて分かった。スコットランドフォークダンス(リール)は、みな下半身のタメが足りない。プリエが浅い。グァーンの福岡圭吾のソロも感じが出ない。奥村のソロは快活だが、強度が足りない。全体的にブルノンヴィルの味が薄く、芝居もいまひとつ。アーティスティックな仕上げが施されていない印象。舞台もオケピットもブルノンヴィルの香りがしない。ロイヤル・デンマーク・オーケストラとレコーディングしているガーフォースが振っていたら…。井上バレエ団でこの演目の常連だった堤俊作の名演奏が忍ばれる。
マッジの場。彼(女)の手下たちとマッジのアウラがさほど変わらない。森の場面。シルフィードがジェイムズの帽子を取って木の切り株にバタンと置いた。米沢の踊りは一幕より軽やかでユーモアを湛えていた。ジェイムズの奥村はもっと重み、タメがほしい。両回転したのはよいが、踊りがシークエンスとして一本筋が通っていない。スタミナ不足のせいか。マッジとグァーンのやり取り。マッジとジェイムズのやり取り。前者の強さ、異界に属している不気味な感触が出ないと舞台が薄っぺらになる。ジェイムズがマッジの企みにかかり、シルフィードが盲目となり死ぬ場面。米沢の両腕がしびれ(生気が失われ)ていくところは、スタイルからはみ出した。
各場面の外形は一応できていても、それぞれ無関係に配置され、相互に油が回っていないような感触。かたちだけは整えているが、作品としての味付けがない。たった15分の作品のためにイーグリングを呼ぶくらいなら、ブルノンヴィル・スタイルの指導者を呼ぶべきだった(イーグリングがかつてスコティッシュ・バレエでジェイムズを踊ったとの情報が本当なら、彼に男性陣の指導を依頼できなかったのか)。
ソワレ。井澤駿と細田千晶のペア。細田はかたちがよく、マイムも悪くない。マッジ役の本島美和は舞台を引き締めた。芸が細かく、大きさ、不気味さを感じさせる。木下嘉人のグァーンも悪くない。性格的にはともかく、ソロはまずまずか。ジェイムズ役の井澤のソロは、よいのだが、もっと覇気が欲しい。リールもマチネよりはましだが、物足りない。相変わらず下半身(脚技)のタメが足りないし、プリエが浅い。アンナのフルフォード佳林は老け役が嵌まっていた。ジェイムズがシルフィードに誘われ、あとを追いかけて走り出すまでのプロセスも充分内面化されているように見えない。
本島マッジ。煮え立つ大釜に気味の悪いものを入れて掻き混ぜ、そこから呪いのしみ込んだスカーフを取り出す。森。パストラル。ホルンは大変。少し音が抜けた。本家のデンマークではホルンの重奏がチェロで奏されたので驚いた記憶がある(第3回ブルノンヴィル・フェスティヴァル)。本番でミスしないためらしいが、これではまったく味気ない。その点、日本ではすべてスコアどおりホルンで演奏(リスクは大きいが、ヴェーバーからの影響がよく分かる)。シルフたち。細田シルフィードは、少し心がかたいが、よい。ソロも。井澤のソロ。両回転。悪くないが、もっと力強さやエネルギーの放射が欲しい。デンマーク・ロイヤル・バレエ時代のラトマンスキーや新国立初演時のコボーなどは、抑えたなかにも雄の孔雀が羽根を広げるような色気があった。両手を広げて抱擁するように見える例の〝抱擁〟ジャンプも、文字通り、客席を抱擁し祝福しなければならない。シルフィードの死。そのあと、ジェイムズがマッジを突き飛ばすシーンでは(この場面のリハーサルでのダメ出しが動画でアップされていたが)本番でも弱い。何といっても婚約者を捨てるほど惹かれ追いかけてきた女性(妖精)をマッジの奸計から自分の手で殺すことになったのだ。一方、マッジの恨みは強烈。順序は逆だが、マッジがグァーンを支配し、エフィに求愛させるシークエンスでは本島の細かな演技が光った。役を生きている。結果、ドラマが立ち上がった。第二幕の手相を見るシーンもそう。エフィの堀口純は役をよく理解し、ブルノンヴィルの味がよく出ていた(師匠岡本佳津子氏の直伝か)。
それでも、全体的に味が薄く、ブルノンヴィル的快楽は不在。音楽も同様。まるで別の曲を聴いているよう。せめて、音楽だけでも喜びが感じられる演奏であれば…。この指揮者は、『眠り』のときもそうだが、瑞々しさや叙情性が、何よりロマンチックな味が希薄。
11日。堀口がよい。リールの冒頭でジェイムズと二人で踊る。そのソロはブルノンヴィルの味がよく出ていた。グァーン木下のソロもまずまず。ジェイムズ福岡のソロ。うまいのだが下半身の力強さが踊りとして見えない。彼ならできないはずはないのだが。リールの後半でトランペットが入るところは男性ダンサーのプリエが二度あるが、福岡をはじめみな浅すぎる。こられの不満は、上記の通り、ダンサーの技量のせいではなく、指導されていないからとしか思えない。シルフィードの小野は、味が出ているとはいえないが、さほど悪くもない(小林紀子バレエカンパニーのコボー版でエフィを踊った)。名人芸然として弾くコンマスのニキティンは、民族音楽的な喜びや高揚感とはかなり距離がある。マッジ本島はこの日もよいが、エングルンドの指導があれば、もっとよくなっただろう。シルフィードがジェイムズからリングを取り上げる場面は、どうぞ取ってくださいといわんばかりで、少し興ざめ。
第二幕。マッジ本島はよい。内側から動いているように見える。牧歌。シルフたち。特に感想なし。二人のやり取り。帽子も取ってくださいという持ち方。福岡のソロ。やはりうまいが爆発しない。拍手もさほど来ない。確信を持って踊るだけの〝言葉〟(指導)を与えられていないように見える。もったいない。マッジ本島とグァーン木下のやり取り。エフィ堀口に求婚を促すシーン。ともによい。シルフィードはベールの呪いではなく、ジェイムズが彼女に触れて抱きしめたから、死ぬ。シルフィード小野が盲目になってこちらへ歩むシーンはグッときた。
シルフィードは3キャストとも無垢であどけない感じがもっと出てもよい。長田佳世はどうだったのか。菅野英男のジェイムズは?
今回の舞台を見ると、ブルノンヴィル作品は他と同列には扱いえないと思った。本作は1836年の初演以来、デンマークで一度も途絶えることなく上演され続けてきた。その間、様々な修正変更が施されたとしても、基本的なスタイルは維持されているだろう。そこには、バレエ団に伝わってきた数多くの〝言葉〟(伝承)が介在しているはずだ。そうした〝言葉〟の不足が今回の味の薄さに直結したのではないか。その意味で、ブルノンヴィル作品はローカルなのかも知れない。そのローカルさから、他作品では味わえない独特の幸福感や喜びが滲み出てくる。ブルノンヴィルをやると集客が芳しくないのは、このロマンティックバレエの、ローカルで独特な魅力が日本の観客に充分伝わっていないからだろう。今回はそれを伝える絶好の機会であっただけに、残念だ。