新国立劇場 特別企画『さまよえるオランダ人』(演奏会形式)

特別企画『さまよえるオランダ人』(演奏会形式)を観た(1月16日 19時/新国立中劇場)。

指揮:城谷正博
ピアノ:木下志寿子

ダーラント:長谷川 顯
ゼンタ:橋爪ゆか
エリック:片寄純也
マリー:山下牧子
舵手:土崎 譲
オランダ人:小森輝彦

本公演のカバー歌手によるコンサート。伴奏はピアノ一台のみでコーラスのパートはすべてカット。セットは一切なく、〝何もない空間〟に照明効果と奥の正面に映し出される抽象的な映像が少し変化するぐらい。そこで、六人の歌手たちは身振り手振りを交えながらただ歌う。ピアニスト以外、全員暗譜。そこには指揮者の城谷正博も含まれる。序曲。上手に置かれたピアノの少し前に指揮者が立ち、棒を振る。しかも、フルオケの場合と変わらないほどの全身全霊を打ち込んだ指揮振り。しっかりした演奏だが、どうしても単色で音がかたく聞こえる。あまり面白くない。ダーラントは長谷川顕、舵手は土崎譲。オランダ人の小森輝彦はさすがと思わせるが、睡魔と戦うのに苦労した。なぜだろう。音楽的なプラスアルファが乏しいから? ピアノのみならず、歌声にも色合いがさほど感じられないから? コーラスが入れば違っていたか。いずれにせよ、第1幕は男だけの世界。
第2幕。女声が入ると気分が変わる。ゼンタの橋爪ゆかは声量はあるが、やや絶叫気味。もう少しふっくら出せるとよいのだが。マリー(ゼンタの乳母)役の山下牧子は出番は少ないが歌唱もドイツ語もクリアで、さすが。幕切れで指揮の城谷氏が指揮を中断し、ピアニストの左に座り連弾となった。少々粗っぽくミスもあったが、俄然、音楽にパトスが加わり厚みが増した。面白い。音を出す人間が一人加わっただけでこんなにも違うのか。初めて頬が弛んだ。
第三幕。指揮者はまた元の位置へ。クライマックス。ゼンタとエリック(片寄純也)のやりとりを立ち聞きし裏切られたと誤解したオランダ人は、《おれは永遠に救われない》と出港しようとする。その後、ゼンタ、エリック、オランダ人の三重唱等があり、オランダ人による名乗りの歌ののち、〈ゼンタはありったけの力で身をふりほどくと、大急ぎで海に突き出た岩礁に駆けあがり、オランダ人に呼びかけ〉、歌う。《あなたの天使さまを、そうしてその仰せごとを讃えてください。このとおり、命をすてても、私はあなたにまごころを捧げます》。そして〈海中に身を投じる〉。〈そのとたん、オランダ人の船はすさまじい音をたてて沈没する。海面は高く盛り上がり、やがて渦を巻きながら沈んでいく〉。ただし、舞台では演技はないし、〈 〉で示したト書きが字幕に出ることはない。だが、音楽が、そのエッセンスがかえってこちらに強く伝わってきた。やがて、例の「救済の動機」がピアノで奏される。とても美しい。最後のト書きはこうだ、〈オランダ人とゼンタの神々しい姿が海中から立ち現れてくる。オランダ人はゼンタを抱きしめている〉(高木卓訳)。この劇場で「音楽チーフとして全てのオペラ公演を支えて」きた城谷正博(飯守泰次郎の言葉/プログラム)の思いの丈と作品の素晴らしさが相乗し、強く心を動かされる終幕となった。
このように音楽のエッセンスだけ聴くと、あらためて、『神々の黄昏』の幕切れで歌われる「ブリュンヒルデの自己犠牲」および「愛の救済の動機」との類似がはっきりと感取できる。ヴァーグナーは男性が女性の犠牲的な愛によってのみ救われるという主題がよほど気に入っていたらしい。さらに、この主題はバレエ『白鳥の湖』のプロット設定に似ていることにも思い至った。
さまよえるオランダ人』(1843年)の場合、神を呪ったオランダ人は永遠に死ぬことができず、幽霊船の船長として海をさまよっている。ただ7年に一度だけ上陸が許され、永遠に愛を誓う女性が現れればこの男は救われる。一方、『白鳥の湖』(1898年蘇演版)では悪魔のロートバルト(大フクロウ)に魔法をかけられ白鳥となったオデット(たち)は、夜の間だけ廃墟のそばで人間の姿に戻ることができる。この魔法は、誰か(男)が変わらぬ愛で、彼女を生涯愛してくれぬかぎり続く。未だ他の娘に愛を誓ったことのない人(男)だけが、彼女の救済者となって、彼女をもとの姿に戻すことができるのだ(森田稔訳による)。こうしてみると、『白鳥』のプロットは『オランダ人』の男女を入れ替えたものだと気づかされる。そもそも『白鳥』のオーボエが奏する例の主題は、チャイコフスキーが評価していた『ローエングリン』(タイトルロールは白鳥の騎士)の「禁問の動機」に酷似しているし、前者の王子の名はジークフリート(4部作「ニーベルングの指環」のヒーロー)である・・・。
コンサートを聴きながら思わぬ発見があった。専門家からすれば自明かも知れないが、それを舞台からじかに感取できたことが大きい。客の入りは7〜8割ぐらいだったが、この企画はこれからも続けてほしい。