新国立劇場 演劇『星ノ数ホド』 Constellations

シリーズ「二人芝居─対話する力─」の3作目『星ノ数ホド』を観た(12月12日 19時/新国立小劇場)。

作:ニック・ペイン
翻訳:浦辺千鶴
演出:小川絵梨子

マリアン(物理学者):鈴木 杏
ローランド(養蜂家):浦井健治


美術:松岡 泉
照明:沢田祐二
音響:福澤裕之
衣裳:前田文子
ヘアメイク:川端富生
演出助手:大澤 遊
舞台監督:澁谷壽久
主催:新国立劇場

中央に少し盛り上がった地面があり、真ん中に葉のない木が一本生えている。この地面は奥から手前に傾斜しており、その周囲を階段が菱形に取り巻いている。階段といっても踏み面がかなり広めで、手前二辺の三つの段はそれぞれ1メートルぐらい。舞台手前の下手側スペースはリビング用のソファがありその背後はサイドボードになっている。「リビング」後方の小高い部分に街灯と金属製のベンチがある。一方、上手手前のスペースには丸テーブルと椅子が2脚見え、先のリビングともどもマリアンが住む室内を表す。後方の小高い段にパイプハンガーが置かれ、ローランドがその場で着替える衣裳が吊されている。同様にマリアンは奥のやや上手寄りの段で着替えをすることになる。
物理学者のマリアンと養蜂家のローランドはバーベキュー場で出会い(木が生えた地面)、デートし(マリアンのリビング)、別れ、再会し(後方の街灯の傍)、マリアンの病気が発覚し(リビング)・・・。話の順序として記せばこうなるが、各場面で二人の対話がある程度進むと火災報知器のような音を合図に台詞は初めの地点に戻り、またほぼ同じ対話が繰り返される。微妙に異なる条件で。これが何度も反復されたあげく、やっと次のエピソードへ進むのだ。ただ、これは人物の自由意志による選択肢の問題とは必ずしもいえない。たとえば、冒頭の出会いのシーンでは、その日が晴れているのか雨なのかは人間が選べるわけではないから。人間の行動の選択肢と不可避的に与えられる条件との様々な組み合わせの中で、人は結局ひとつの道を採る。採らされる。そのことから、採らなかった道が、ありえたかも知れない道すじが、可能性として生じるのだ。この芝居は、そのありえたかも知れない別のすじみちを、その場で、台詞と動きで実演してみせる。趣向としては面白い。が、少し進むとまた後に戻り、同じような芝居が反復されると、見ている側はかなりきつい。やっている側はもっときついだろう。というか、その役者のきつさ、しんどさが、たぶん客席にも伝わってきてちょっと辛かった。違いが大きい場合には、面白さも比例して大きくなるが、微妙で微細な場合、正直たいくつしてしまう。寝ている人が散見されたのはそのせいだろう。しかし、後でいろいろと考えさせられたことはたしかだ。
たとえばすぐに、昔読んだT. S. エリオットの"Burnt Norton" (『四つの四重奏』)の一節を想い出した。'What might have been and what has been/Point to one end, which is always present. '
マリアンが専攻する物理学についての「お話」がプログラムに載っている(藤村行俊「学校では習わない物理学のお話」)。「何かをするたびに世界は分かれていって、それぞれ二度と出会うことのない別の世界が続いていく」。ゆえに「何かが起こる確率が五分の一なら、それぞれが起こった五通りの世界がある」。これを「量子力学多世界解釈」というらしいが、よく分からない。だが、別の物理学者のいう「過去にしたこともしなかったことも、全部足し合わせ今の結果が現れる」というのは腑に落ちるし、エリオットの詩行ともよく響き合う。「こうだったかも知れないとこうだったは/ひとつの終わりを指し示す、それはいつも現前しているのだ」。
この芝居は「今の結果の現れ」の、すなわち「いつも現前している」「ひとつの終わり」の見えない成分を可視化する試みだったのかも知れない。
鈴木杏浦井健治はさすが。ただ、後者の台詞回しはフォルテが多いため少し単調な印象も。養蜂家のキャラを出そうとしたのか、あるは劇場全体に聞こえるよう配慮したのか。もっと相手役と対話してもよい。だが、二人ともこの難しい芝居をよくやり切ったと思う。
【追加】ところで、今回は女性が多いので驚いた。開演前、フォワイエでプログラムを読んでいたら、女性トイレの前に長蛇の列。まるで宝塚のよう。浦井健治はそんなに人気者なのか。