青年団第73回公演『暗愚小傳』/内的対話を促す余白

平田オリザ作・演出の『暗愚小傳』を観た(10月22日 19:30/吉祥寺シアター)。

出演
山内健司 松田弘子 永井秀樹 川隅奈保子 能島瑞穂 堀 夏子 森内美由紀 木引優子 伊藤 毅 井上みなみ 折原アキラ 佐藤 滋
スタッフ
舞台美術:杉山 至
照明:三嶋聖子
音響:泉田雄太
衣裳:正金 彩
舞台監督:中西隆雄
宣伝美術:工藤規雄+上野久美子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:石川景子 金澤 昭 舩田紀子 赤刎千久子
企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力:(公財)武蔵野文化事業団
平成26年文化庁劇場・音楽堂等活性化事業

素晴らしい舞台。これこそ演劇だ。
『その河をこえて、五月』(日韓合同/2002年)を観て以来、平田オリザの著作の方はかなり読んできた。特に『演劇入門』は必要があって何度も読み返している。だが、考えてみれば、舞台は数えるほどしか見ていない。『その河』の再演(2005年/新国立劇場)、『ソウル市民』(2005年/フィスバック演出/シアタートラム)、『下周村』(日中合同/2007年/新国立劇場)、『砂と兵隊』(2010年/こまばアゴラ劇場)・・・これだけだ。想田和弘監督の映画『演劇1』『演劇2』はもちろん見たのだが(2012年/イメージフォーラム)、肝心の代表作をほとんど見ていない。今回の『暗愚小傳』で初めてオリザ作品をまともに見た。そう感じた。
高村光太郎と智恵子の生活。正気を失っていく智恵子。そして戦争。高村家の居間を舞台に、彼を取り巻く縁者や友人、知人との交わりを、沈黙や間を含む対話だけで表現する。智恵子が正気を失うといっても、殊更にそうした演技をするわけではない。つまり、劇的な変化はない。明示的には見えない。居間のテーブルには、つねに将棋盤と駒の入った箱が置かれている。モノは変わらない。だが、ヒトのこころはときに大きく揺れ動く。役者たちの微細な動きや沈黙により、われわれ観客の内側で、智恵子を失った光太郎の慟哭や深い悲しみが徐々に膨れあがっていく。結果、彼の喪失感とその後書かれた数多くの戦争協力詩とは無関係ではないだろう、と思わされる。
法事の場面で自ら言い出した銀座へ繰り出す話を突然やめると云う光太郎。独りになった彼は湯飲み茶碗を片付けてお盆に載せ、上手へ去る。その後ろ姿。ラストでいくつも重ねた木の椅子に乗り、喜ぶ光太郎。ここで例の詩「樹下の二人」を口にする、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・」。やがて智恵子が現れる。異常を来し始めた頃のように、光太郎の背中に馬乗りになる笑顔の智恵子。そこへ宮沢賢治も登場する。死者との対話の場面だが、そんな暗さは微塵もない。その明るさが、かえって見る者に光太郎の思いを痛切に想像させる。いや、内的に創造することを促す、というべきか。
セットの居間を形成する骨組みの下手手前の隅に、鉛直を調べるときの円錐形の錘(おもり)が天井から糸で吊されている。開幕前なんだろうと気になっていた。が、途中、たしか智恵子が死んだ後の場では、その上部から温かい光が下向きに点っていた。それが、智恵子(死者)の再登場時に、この灯りは消えていた(と思う)。彼女の魂が、死んだ後にも、光太郎を見守っていたのだろう。
平田は演劇でしか出来ないことをやろうとしている。現にやっている。舞台は一見スタティックだが、客席と舞台の関係はきわめてダイナミック。というか、観客と舞台との内的な交流(対話)を巧みに促す余白があちこちに仕組まれている。その意味で、客席にも相応のクオリティが要求される。
役者はみなうまい。よく訓練されており、しかも味わい深い。平田の舞台をもっと見たい。出来れば都心からあまり遠くない劇場で。