先ほど標記公演の初日を観てきた(8月27日 19時/銅鑼アトリエ)。
劇団銅鑼公演ドラマファクトリーvol.8「たったいま八月の冥王星で たったいま八月の地球では」
テキスト/和合亮一 構成・演出/篠本賢一
美術・衣装/長谷川康子 照明/佐々木真喜子 音響/中嶋直勝 音楽/藤田佐知子
チェロ演奏/丸山剛弘 振付/石川弘美 舞台監督/稲葉対介 舞台監督助手/村松眞衣
宣伝美術/山口拓三(GAROWA GRAPHICO)企画/三田直門 制作/平野真弓
cast
館野元彦 三田直門 亀岡幸大 木下昌孝 永井沙織 福井夏紀 向暁子 高原瑞季
横長のアトリエには、緩やかに傾斜した長さの異なるふたつの〝花道〟が一部重なるように設えられ、のぼった先(入り口を起点にすれば左奥)に舞台ならぬ方形の小さな演台がある。さらに梯子が演台の傍に二挺、花道の端に一挺、それぞれ垂直に設置。客席はこの花道を両側から挟むように二列つくられている。
詩、それも〝現代詩〟の言葉だけ(?)で構成された舞台。フクシマの詩人、和合亮一氏の、フクシマ以前の詩集『入道雲』と、以後の『廃炉詩篇』がベースになっているらしい。具体的な意味やイメージを容易には結ばない言葉が、終始、八人の役者により発せられる。役者たちは黒のフード付きレインコートや白シャツ等の出で立ちで、チェロの生演奏と効果音のなか、様々に動きながら語る。ストーリーはない。プロットレス・バレエならぬプロットレス演劇(?)。その徹底性に、すがすがしささえ感じる。篠本賢一(構成・演出)の様式感覚と役者たちの強度の高い声や頑張りで(〝現代詩〟の言葉をよく暗記したものだ)、さほど退屈することはなかった。だが、演劇の喜びは乏しい。
「一九六八年の[死産だった双子の]弟の背中に降る真夏の雨/君の背中に降る雨/それは僕の浪費」「何かが終わらない/何かが始まらない」等々。前者のフレーズが、幕切れ近くで、「二〇一四年の僕の背中に降る真夏の雨/僕の背中に降る雨/それは人類の浪費」と館野元彦が思いを込めて語る。休憩なしの75分間で初めて意味らしい意味を感取した瞬間だ。
対面式の客席なので、客の表情が時おり眼に入る。さほど頻繁に芝居を見るわけではなさそうな、近所の中年女性の戸惑った表情に、少し気の毒になった。彼らに、演劇を、物語や意味ではなく、音楽のように享受するよう求めるのは少し酷ではないか。国から助成を受け、区の公益財団との共催とあれば、地域の住民にもう少し喜びを与える配慮があってもよい(補助金の「トップレベルの舞台芸術」というネーミングが高踏的にさせるのか)。
和合氏の詩を活字で読んだことはない。ただ、耳で聞いていると、異化を狙ったような言葉が多いと感じる。文学として読めばさほど気にならないのかも知れない(ブレヒトではなくシクロフスキーの異化)。だが、演劇の場合、「異化効果」は、その(非親和化の)対象となる出来事や人物の提示が不可避ではないか。異化と(感情)同化のバランスと言い換えてもよい。さもないと、意味不明な言葉の奔流による苦行になりかねない。今回それを免れたのは、役者たちが言葉を発する勢いと身体の動きが一定の流れや秩序に支えられていたからだろう。その点は、評価できる。それでも、この劇団には声を大にして言いたい、「もっと演劇の喜びを!」と。