勅使川原三郎(KARAS)『空時計サナトリウム』再演

昨夜 KARASの再演『空時計(からどけい)サナトリウム』を観た(7月11日 20時/東京・両国 シアターX)。
台風は過ぎたのになぜか雨。シアターXへ行くのはこれで三回目だが、いつも天候が荒れている。

振付・演出・照明・美術・選曲・衣装:勅使川原三郎
出演:勅使川原三郎 佐東利穂子 鰐川枝里 川村美恵 KARASダンサー
企画制作:KARAS/主催:有限会社カラス/特別提携:シアターX/助成:芸術文化振興基金

再演らしいが、今回が初見。見る前に、シュルツの原作を大急ぎで読んだ。
ポーランドユダヤ系作家・画家ブルーノ・シュルツ(1892-1942)は、ナチスドイツに再占領された生地ドロホビチの路上でゲシュタポに射殺されている。シュルツの舞台化といえば、以前、テアトル・ド・コンプリシテの『ストリート・オブ・クロコダイル』をパブリックシアターで見た。調べてみると1998年10月。あのときシュルツは読まずじまい。そのせいではないが、あまりよい印象は残っていない。壁を垂直によじ登るなど、たしかに身体を自在に動かす役者の技術力には驚嘆した。だが、どことなく漂うペダンティックな悪臭に違和感を覚えたのだ。いま思えば、この悪臭の源は、テアトル・ド・コンプリシテというより、彼らをスノビッシュに持ち上げる日本の取り巻きだったのかも知れない。
「砂時計サナトリウム」は『シュルツ全小説』(工藤幸雄訳)のなかではたぶん最も長い。読みながら、いろんな作品が頭に浮かんだ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、ピンターの『ホットハウス』、カフカの小説、ドイルの『バスカヴィル家の犬』等々。陰影の深いモノクロ世界に、現(うつつ)と夢想が錯綜する。だが、後者の現出に安易さは微塵もなく、そこには確固たる創作原理が働いている。そう感じさせる。とにかく叙述が緻密かつ微細で翻訳も素晴らしい。舞台を見た翌日(つまり今日だが)とりあえず「七月の夜」と「大鰐通り」も読んでみた。前者から、昔読んだリルケの『マルテの手記』やパヴェーゼの小説などを想起した。
ところで肝心の舞台だが、かなり原作に忠実な構成で、少し拍子抜け。「砂時計サナトリウム」で主人公が辿る道筋を、録音された(?)小説の語りに合わせて、ダンサーたちが演じ、踊る。主人公を担う勅使川原の踊りは、たしかに年齢の割にはキレがある。が、踊りそのものは例のやつ。相変わらず自己愛が強く、正視しづらい。他方、父親役の佐東利穂子は、空間に自己を捧げきる気持ちのよい踊りで、魅せた。
勅使川原三郎は、演出・照明・舞台美術等でいつもセンスのよさを感じさせる。が、今回は、シュルツを自分の踊りに合ったフレームとして利用しただけ、といえなくもない。シュルツ的作品世界に自分を嵌入させたい気持ちはよく理解できる。だが、美的(趣味的)にはともかく、集団(KARAS)における彼のあり方は、シュルツ的世界と矛盾はないのか。勅使川原ほどの構成力があれば、原作の肝を掴んだうえで、いったんバラバラに解体し、ダンス作品として再構成することもできたのではないか。
「七月の夜」の方はどうだったのだろう。残念ながら、明日はサントリーホールとかち合って見ることができない。
ところで、原作の「砂時計サナトリウム」を「空(から)時計・・・」に変えたのはなぜだろう。始終「眠気に苛まれ」通常の時間感覚を失っている主人公のありようを示すためか。「絶えざる監視の目を免れている時間の急速な分裂崩壊」という言葉が舞台のナレーションでも聞かれた。小説ではその少し前に、時間の流れと眠りについて、「どんな場所、どんな時間にも」貪ることができる「甘い仮眠」について、次のような叙述がある。

道を歩いているうちに時としてある長い時間がとびとびにそこだけはっきりと行方不明になり、私たちは一日の連続性に対する統制を失って、ついにはそれを当てにすること自体をやめる、こうしてかつて惰性から、また日常の細心の規律から油断なく守ってきた切れのない時間という大枠を私たちは放棄することになる。過ぎ去った時間の勘定書を作るという不断の心がけや、使われた時間を一銭一里に到るまで細かく換算するという綿密さは――それこそわれらの経済学の誇りであり野心である――とっくにご破算となった。(工藤幸雄訳)

「現実の神話化」(シュルツ)を可能にする、こうした〝非経済学的〟時間の現出を示唆したいため、「空時計」という言葉を使ったのかも知れない。