2013年12月〜2月感想メモ/BCJ『レクイエム』/新国立バレエ『くるみ割り人形』+厚木公演/日本バレエ協会『アンナ・カレーニナ』/新国立オペラ『カルメン』『蝶々夫人』/新日本フィル#105定演/現代能楽集VII「花子について」/ARCHITANZ 2014

そういうわけでたまった舞台の感想をまとめて簡単にメモする。

BCJ #105定演 モーツァルト『レクイエム』鈴木優人 補筆校訂(12月9日 19時/東京オペラシティ コンサートホール)

2006年モーツァルト・イヤーではアーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスやカリユステ指揮のスウェーデン放送合唱団等を含め多くの〝モツレク〟を聴いたが、最も忘れがたいのはBCJ。終曲後、雅明氏はなかなか手を降ろさない。静まりかえるホール。やがて客席へ振り向いた氏は茫然自失の態。演奏する前とは予想外の境地を体験したのだろう。今回は優人氏の補筆版(プログラム掲載の「制作ノート」を参照)。7年前とはまったく別種の演奏で、確信的に骨というか奥にあるものを掘り起こす。美的なものより言葉を重視。プロテスタント的? バッハ的レクイエム? 「ラクリモーザ」(涙の日)の最後は'amen'ではなく'Requiem'で終わる。その後「アーメン」フーガを新たに挿入。「トゥーバ・ミルム」(不思議なラッパの響き)のトロンボーンソロは冒頭だけで、あとはファゴットが吹いた。来日した名手のソロをもっと聴いてみたい気も。演奏は全体として攻撃的な印象だが「ホスティアス」(賛美のいけにえ)では情感があふれた。七年前の震えるような感動はない。だが、もう一度聴いてみたい。

新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』(12月17日 19時、18日 19時、22日 14時/新国立劇場オペラハウス)

現代の東京から20世紀初頭(原作は19世紀前半)ドイツのシュタールバウム家へワープする牧版『くるみ』のコンセプトは悪くない。ただ、今回は、冒頭の新宿を行き交う人々の「生」がいまひとつ立ち上がらない。一幕のハーレキン、コロンビーヌ、トロルは、もっと客席を沸かせたい。雪のシーンは美術・コスチューム共に美しい。米沢唯の雪の女王(17日)は慈愛に満ち、貫禄すら漂う。例によって、高速で動いているのに印象はゆったりしている。米沢は誰よりも菅野と組むと〝対話〟(気のやり取り)がくっきり成立し、踊りの〝倍音〟がふんだんに聞こえる。小野絢子の雪の女王も個性は違うが素晴らしい。金平糖の精より合っているかも。トレパックの三人は外連味で客席を沸かせた(八幡顕光、福田圭吾、宇賀大将/高橋一輝)。花のワルツはワイノーネン版のままだが、チェロが短調を奏でる中間部の振付にいつも音楽との齟齬を感じる。パ・ド・ドゥは、複数男性のリフトによるアクロバティックなワイノーネン版より牧版の方が正統的。ただ音楽の劇的な盛り上がりに付き従う振付ではない分、踊り手にはチャレンジングだろう。小野絢子(17日)はよく踊った。菅野のヴァリエーションは弾性があり、人間性を感じさせる好ましい踊り。安定感もある。米沢と福岡のパ・ド・ドゥ(18・22日)はさすがだが、唯ちゃんはいつもより気のやり取りを抑えているように感じた。井田勝大指揮の東フィルは、あまり軽快とはいえない(リズムの取り方に横やりが入った所為?)。中国の踊りのフルートはちょっとひどすぎないか。

日本バレエ協会 プロコフスキー版『アンナ・カレーニナ』(1月11日 18時/東京文化会館

初演は1979年らしいが見たのは初めて。集団の中での個人。マクミラン的なデフォルメ(極端なクロースアップなど)はあまり見られない。エイフマン(2005年)のように象徴的な手法はいっさい用いない。レーヴィン(リョーヴィン)やドリィの役を省略せず、ラトマンスキー版(2004年)同様、原作世界をある程度は忠実に再現する。主役陣はよほど役に生命を注ぎ込まないと平板になる恐れも。
下村由理惠(アンナ)は人妻の抑制した在り方から、恋を契機に抑圧を解き放っていくプロセスを意識的に造形した。ただアンナのタイプではないが。踊りの技術は高く、プロっぽい。佐々木大(ヴロンスキー)は年齢の割によく動き、踊りのかたちは悪くない。が、どこか心許ない。以前、酒井はなと踊った『ドン・キホーテ』でみせた、意志を外に出すような気迫は感じられない。どこか空虚。結果、二人の間から対話が聞こえてこない。
本作は場面転換が多いため、個々のシーンが全体に占める位置づけをしっかり把握して演じないと、作品に一本筋が通らない。全体を芸術的に見渡す演出家の視線が弱い。
江原功の指揮(東京ニューフィルハーモニック管弦楽団)はテンポに細心の注意を払いながらの音楽作り。大きなミスがないという意味では悪くないのだが、板の上と同様、音楽的な流れやうねりがあまり感じられない。

山田うん春の祭典』『結婚』(1月13日 16時/スパイラルホール)

メモが見当たらない!

新国立劇場オペラ『カルメン』(1月19日 14時=初日/新国立劇場オペラハウス)

カルメン役のケテワン・ケモクリーゼは、初役のせいか、自分のものにして歌えていない。カスタネットが自奏でないのはちょっと興ざめ。ドン・ホセのガストン・リベロはよいと思った(アルゼンチンでの貧しい幼少期や01年の同時多発テロ体験をもつウルグアイ系米国人テノールは、公演の合間に宮城県名取市で復興支援チャリティーコンサートを開いたらしい)。浜田理恵は、巧ぶる歌唱の在り方が、清純素朴なミカエラの心性にそぐわない。三幕一場(山の中)では怖がるそぶりもなかった(と記憶する)。エスカミーリョのドミトリー・ウリアノフは、歌唱は充実していたが、立ち居振る舞いが不器用そうだったか(もう忘れた)。ラトヴィア出身の若手アイナルス・ルビキスは自分の世界を持った迷いのない指揮(東京交響楽団)。鵜山仁の演出は、初演時から見るに堪えない。たとえば一幕、男たちの女工たちへの態度はマヌケだし、子供らの立ち位置等はあまりに平板でプロのオペラ公演とは思えない。群れの動かし方も・・・(先日の新日本フィル定期での栗友会の動きの方がはるかに見応えあり)。バレエの定番『白鳥の湖』同様、このオペラの定番も要改訂。

新国立劇場バレエ団「クラシック・バレエ・ハイライト」( 1月23日 19時/厚木市文化会館 大ホール)

『パ・ド・カトル』(音楽:プーニ/ステージング:大原永子)はロマンティックな味わいで、互いへのレヴェランスが面白い。長田佳世は動きが別格。基礎力(メソッド)の充実を感じさせる。ピアノ演奏はテープかと思ったら、カーテンコールで壇上に(蛭崎あゆみ)。『アリアのための序曲』(音楽:バッハ/振付:貝川鐵夫)は、音の取り方が実に面白い。〝G線上のアリア〟のゆったりしたフレージングをあえて思い切り細かく分節する。終曲後、無音でまた踊る。貝川、輪島拓也、吉本泰久。『ドン・キホーテ』第3幕より グラン・パ・ド・ドゥ。米沢唯は楽々と外連をこなす(ように見える)。以前よりラインがしっかり見える。その分、精神のかたちはやや見えにくい(いろいろ試行しているのか)。福岡雄大は誰よりもうまい。二人とももっと様式性が出れば無敵になるかも。ヴァリエーションの五月女遥は踊りがスムーズ。井倉真未は荒さが目立つ。
白鳥の湖』より第2幕。堀口純はかたちはよいが、もっと強度がほしい。泣き顔はNG。トレウバエフはサポートのみで気の毒。客の入りは七割程度か。テープで見ると、生オケのよさが身にしみる。全般的に舞台が冷えているような感触。会場に新国立のちらしを置かないのは、もったいない。

新日本フィル#519 定演 シューベルト交響曲第4番ハ短調D417「悲劇的」』ブルックナー交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」』ハウシルト指揮( 1月24日 19:15/すみだトリフォニーホール

シューベルト。面白いメロディ。〝悲劇的〟とはいえ明るい。ほとんどヴィブラートをかけず、透明な響き。/ピリオド奏法のブルックナーは初めて。三楽章は、大地が振動して目を覚まし、活気づいていくような。面白い。四楽章のテュッティでユニゾンを奏するところ、頬が緩んだ。終曲後の沈黙は、前列の六十代半ばと覚しき男性のフライング拍手で無残に破られ、70分間積み上げた大伽藍にひびが入った。「あなたのフライングにオケ団員はがっかりしていました。分かりませんでしたか。あと数十秒、いや数秒を、どうして我慢できないのですか?」(肩をすくめ)「すいませーん」。

小野寺修二 カンパニーデラシネラ『ある女の家』(1月25日 15時/新国立中劇場)

「家族の物語。家とは。母とは。・・・」と小野寺はいうが、基本的にプロットはない。強いていえばスキットのコラージュか。例によってマイムの手法と独特の動きで客席を魅了する。『異邦人』の後半のようなマンネリズムに陥らなかったのは、浅野和之の存在が大きい。下手のテーブルで浅野が見せた上半身のマイム――間接が外れたような動き――は超秀逸。誰よりもキレがあり、うまい。

新国立劇場オペラ『蝶々夫人』(1月30日 19時=初日/新国立劇場オペラハウス)

タイトルロールのアレクシア・ヴルガリドゥが体調不良のため、代役の石上朋美が急遽出演した(当日決まったとの由。初日以外は代役なし)。石上は見事に大役を果たした。階段を降りてくる登場のシーンからなぜかグッときた。身体全体からなにかを発していた。代役としてのプレッシャーを撥ね除けようとする芯の勁さが、蝶々さんの苦境を堪え忍ぶ誇り高い健気さとシンクロしたのかも知れない。石上は伸びやかな歌声で自在さもあり、ヒューマンな美声。カーテンコールでは大きな歓声を浴びた。こうでなくっちゃ。客席の大半は分かっているのだ。ピンカートンのミハイル・アガフォノフははじめはもっと弾性が欲しい気もしたが、尻上がりによくなり、第一幕幕切れの石上とのデュエットは素晴らしかった。シャープレスの甲斐栄二郎はノーブルで安定感がある。劇場初の女性指揮者ケリー=リン・ウィルソンはその時々で質の高い音を引き出すのだが、構成感がやや乏しくプッチーニらしさはあまり感じない。栗山民也の演出は、何度見ても素晴らしい。蝶々夫人とピンカートンのデュエット等で後方の星条旗がはためくタイミングの絶妙さ、母の自決が残された混血児の目に焼き付けれるエンディング等々。衣裳(前田文子)も素晴らしい。ただ、今回は、一幕で蝶々さんが親族と共に階段を降りてくる、絵のように美しい隊列シーンは、いまひとつの感あり。再演演出(菊池裕美子)にずれはなかったか。

現代能楽集VII「花子について」(2月5日 19時/世田谷パブリックシアター シアタートラム)

作・演出:倉持裕。『葵上』は「女が鬼に変身する過程を視覚化した」もの。「エンターテインメント」というが、ダンス部分の創りは〝降りている〟ような印象も【何から? 創作の探究から。が、演出のフレームを受け入れた結果、そう見えただけかも】。このとき黒田育代は身重?『花子』は喜劇(狂言)的で面白いが、夫役の小林高鹿は物足りない。『班女』は、原作(「近代能楽集」の方)の新聞をネットに変え、近代を現代化。実子が見るSNSを壁に映し出す演出はF/T13で見たリナ・サーネー& ラビア・ムルエの『33rpmと数秒間』に似た趣向。実子はネットに書き込む人々を、自分では何もせず他人がやってくれるのを待つだけと吐き捨てる。が、この批判はそっくり自分にはね返る。そう感じさせる作りと演技が巧み。待つ女の花子を演じる西田尚美がいい。吉雄の近藤公園も。だが、今回の舞台は、スター女優片桐はいりの図抜けた存在なしには成立しなかっただろう。

ARCHITANZ 2014 2月公演(2月11日 19:15/新国立中劇場)

『Opus 131』(振付:アレッシオ・シルヴェストリン)は、ネオクラシカルな作品。最初は少々退屈したが、イ・ソンと金田あゆ子の登場後、注視する気に。ソンは踊りが大きくきれいで強度がある。金田はちょっと変で、面白い。ベートーヴェン弦楽四重奏第14番 作品131は昨年新国立で見た芝居『OPUS/作品』もこの曲がベース。後半、ずんぐり体型の女性達の踊りは妙に味があった。が少し長すぎか。
『マノン』より第1幕 第2場〝寝室のパ・ド・ドゥ〟(振付:ケネス・マクミラン)では、ロバート・テューズリーと酒井はなの寄り添う姿に、つくづく新国立で組ませたかった。テューズリーは現役では誰よりもマクミランスタイルを体現できるダンサー。これで引退は残念。
『HAGOROMO』(演出・振付・美術・出演:森山開次/音楽・演奏:デワ・アリット)は、ガムラン演奏家の音楽が面白い。動きに驚きはないが、能楽師(津村禮次郎)とガムランとのコラボならではの、即興の妙。よくかたちにし、完結させた。
火の鳥のパ・ド・ドゥ』(振付:マルコ・ゲッケ)はめっぽう面白い。二羽の鳥。背中。こけしや木彫り人形の〝不自由さ〟に様式性を一本通し、なんともいえない味わいの踊りに仕上げている。音楽から導き出されたとは思えない動きだが、音楽に合っている。この手のテューズリーは初めてだが、さすがの踊り。はなもよい。舞台上のテューズリーを見るのはこれで最後か。
舞台監督へ「客席で拍手が続いているときは、早く帰れといわんばかりに客電を点けるのはやめて欲しい」。