dancetoday 2013 doublebill 島地保武+酒井はな〈アルトノイ〉& 関かおり/「進化以前」という視点

"dancetoday 2013" ダブルビルの初日を観た(10月18日 19:30/彩の国さいたま芸術劇場 小ホール)。
両作とも、動物から〝進化〟した人間のありようを相対化する視点が感じられた。フロアの穴(奈落)も共通項。前者は異界(黄泉の世界)への入り口? 後者は竪穴住居?

『詠う〜あなたが消えてしまうまえに〜』
演出|島地保武(アルトノイ)
振付・出演|島地保武、酒井はな(アルトノイ)
音楽|蓮沼執太
衣装|さとうみちよ (Gazaa)
小道具|川口知美(COSTUME80+)、さとうみちよ (Gazaa)
照明|岩品武顕
舞台監督|平井 徹
協力|スタジオ アーキタンツ
主催・企画・制作|公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団

階段状のU字型観客席が舞台の手前部分を囲む。最前列と地続きの舞台奥やや上手寄りに衝立、下手寄りに穴(奈落)。
リハーサル然とした軽装の島地が、フード付きの上着と繋がったズボンの裾に黒の革靴を吊した〝人形〟相手にひとしきり戯れる。男女の抱擁のイメージか。後方の衝立前で体育座りして見守る酒井。次は、太くて長い真っ赤な紐(綱)を用いてのシークエンス。先端には複数の結び目のような飾りが。これは何? 〝運命の赤い糸〟? それとも臍の緒? 酒井はバトンを持っている。先端の握り部分はインコか。二人は鳥のように互いに声を発する「ピュー!」「ピュー、ピュー!!」。鳥の求愛? 暗転の後、男はサイケなタイツに白いロングコートを着て、日本の洋楽に口パクしながら踊る。フロアに映し出されるカラフルな模様の照明が楽しい。その間、女は後方で白いスカートに上着を身につけ・・・。やがて、男は下手奥の奈落へ入り「消えてしまう」が、ひとり残された女は、美しい青空を見つめながら舞台奥へ歩んでいく。音楽はピアノ+シロフォン+ギター・・・。島地の骨太な世界観と踊り。地勢(知性)的には南への指向か。間違ってもスノッブや訳知りにはなるまいという構え。踊りの部分はフォーサイス的といえるのか。酒井の踊りはバレエダンサーらしく、きれいでシャープな趣き。

『アミグレクタ』
振付・演出|関かおり
演出助手|矢吹 唯
出演|関かおり、岩渕貞太、管 彩夏、荒 悠平、後藤ゆう、矢吹 唯
音響|堤田祐史(WHITELIGHT)
香り|吉武利文((有)香りのデザイン研究所)
衣装|竹内陽子
照明|岩品武顕
舞台監督|平井 徹
協力|黒須育海、田口造形音響
主催・企画・制作|公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団

タイトルの「アミグレクタ」は《ラテン語の「amittere: 失う」「dilecta: 大切な」英語の「regret: 惜しむ」からの造語》とのこと(プログラム)。
25分の休憩後、舞台は白っぽいフロアに変わり、穴もひとつ増え、手前と奥に穿たれている。五人の男女が、そこから出てきたり、そこへ入ったり。みな金茶色のレオタード姿で、斑の模様がついている。なにかの動物か、それとも原始人か。五人の〝ダンス〟は、すべて、四足歩行から二足歩行へ〝進化〟したばかりのヒトの動作を模したように見える。女二人で、男二人で、あるいは男女で絡んだり・・・。〝進化〟の途上にあるヒトもしくは赤ちゃんの組み体操のよう。基本的に無音だが、ごくたまに、前半は風鈴のような、後半は蛙のげっぷのような音が数回聞こえた。時おり暗転し、またゆっくり明るくなる。動きとしては、基本的には前のヴァリエーションか。後藤ゆうが、横になった状態から寝返りを打つようにあれやこれやと試しながらやっと起き上がる。とても印象的。前にぎっくり腰や頸椎症で伏せった際、トイレへ行くため激痛に堪えながら立ち上がったときの〝苦闘〟を思い出した。
なぜこの若いダンサーたちは二足歩行以前のヒト(生き物)の動きに興味をもったのか。人類は四足歩行から直立二足歩行へ〝進化〟したが故に万物の霊長になったといわれる。その〝進化〟のお陰でわれわれは高度な文明を得たのかも知れないが、同時に、「大切な」なにかを「失った」ともいえるのではないか。それを「惜しむ」べく、関かおりは、〝進化〟以前の動きを何度も何度も実践して見せたのかも知れない。その〝なにか〟を身体で確認するために。嗅覚へのこだわり(「香り」のデザイナーがスタッフ欄に明記されている)も〝進化〟以前の視点と無関係ではないはずだ(K=4列目のせいか残念ながら嗅ぎ取れなかったが)。55分間ほぼ無音の中この動きを延々と続けるのだが、こちらの集中を切らすことなく注視させた力量は大したもの(もっとも、後方のダンス関係者らしき中年女性は何度も何度もため息をついていたが)。
舞台を見ながら、竹内敏晴だったか、あるいは林竹二の、動物から「人間になる」ことについての省察に共通するものを感じた。後で探してみたら、竹内の「人が立つこと」というレッスンにまつわる文章が見つかった(『からだ・演劇・教育』岩波新書、1989/2000)。

人の最大の特徴は二本足で立って歩くことだと言われている。わかりきったことのようだけれども、人類の属する哺乳類は本来四本脚で歩いているのに、なんで人は立ち上がってきたんだろうかと、考え始めると、ひどく奇妙に思われる。立ち上がってくる過程で、人が獲得してきたものはなんなのだろうか。これはよく説かれることだが、あべこべに失ったものはなんなのか、と考えてみると、重要なことがいくつも見えてくる気がする。たとえば、人のからだは水平に支えられていた胴体が垂直にされたことによって、内蔵や骨格にいろいろ無理をきたしているようだ。人はまだ二本足で立って生活するにふさわしい次元までからだ全体がちゃんと進化していないと、私は思っているが、そのような問題を、自分自身で、まず、四つんばいになってその安定感を味わい、それが歩くとは、どのようにしてその安定を崩すことで可能になるのかを、手、即ち前足や後足を動かしながら考えてみることから始めて、ゴリラやオランウータンの骨格や歩き方をまねしてみ、だんだんと立ち上がっていきながら、ずうっと考えていくのである。[中略]
それを[東京都立南葛飾高校定時制の]選択の授業の時にやったところが、申谷氏[南葛の教員]たちが、これは林先生[教育哲学者 林竹二]の「人間について」の授業と本質的に同じ、人間についての問いかけを孕むレッスンだと言い出して・・・[後略]

いま読み返してみると、関かおりの『アミグレクタ』から感受した〝批評性〟をぴったり言い当てているようで少し驚いた。現在のわれわれが置かれている状況を、〝進化以前〟という視点から相対化すること。奇しくも島地保武の『詠う』にも見出されるスタンスだ。〝近代以前〟(プレ・モダン)とか〝近代以後/脱近代主義〟(ポスト・モダン)といった切り口では、もはやこの現在は少なくと身体的には批評(抵抗)しずらくなっているのかも知れない。いずれにせよ、〝進化以前〟(プレ・エヴォリューション)的視点から創作された彼らのダンス作品は、思想的には〝脱進化主義〟(ポスト・エヴォリューショニズム)を志向しているといえるのではないか。