ブリテン生誕100年 第529回 読響定演/意欲的なプログラム/災厄と芸術

開演前にアークヒルズで食事をしていたら、細川俊夫氏に遭遇した。せっかくなので、昨年聞いた四つのコンサート(作曲コンクールの講評を含む)への称賛の意と新国立劇場委嘱作オペラ《夜叉ヶ池》のメモと同旨のことを伝えた(新国立劇場オペラ《夜叉ヶ池》/想像力を疎外する演出/海外に出せる日本のオペラを創るには - 劇場文化のフィールドワーク)。そのさい氏から、サントリーホールのサマーフェスティバルがいま開幕中で、よい歌手も来ているので、ぜひ、と勧められる。迂闊だった。さっそくホールでチラシを見ると、細川氏は「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNo.36」の監修者で、「テーマ作曲家」でもあり、この日はその〝室内楽〟編(ブルーローズ)当日だった。〝管弦楽〟編(大ホール)は二日後(9月5日)との由。そうだったのか。前者はこの読響定期とダブっているためノーチャンスだが、後者はその場でチケットを取った。カンブルランは細川氏のオラトリオ『ヒロシマ/声なき声』(2001)をドイツで世界初演し、昨年は日本初演も果たした指揮者だから、てっきり、カンブルランを聴きに来たものと勘違い。とにかく、思いがけず細川氏の新曲を聞けることになった。
第529回 読売日本交響楽団 定期演奏会を聴いた(9月3日 19:00/サントリーホール )。

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴィオラ=鈴木康浩(読響ソロ・ヴィオラ奏者)
合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=三澤洋史)
コンサートマスター=デヴィッド・ノーラン(ゲスト)

前半はベンジャミン・ブリテン(1913-76)の生誕100年を記念したブリテン作品二曲。一曲目のラクリメ〜弦楽とヴィオラのための 作品48a」(1950)は、二階後方から聞いたせいか、小編成作品としては会場がやや広すぎる印象。ビオラ独奏にもっとメリハリがほしい箇所もあったが(これもホールのため?)、最後のダウラントのテーマはとても美しかった。スコアには、ヴァイオリンのパートはオケの第2ヴァイオリン奏者たちに弾いて欲しいと記されているらしいが、今回はどうだったのか。
二曲目は日本政府が皇紀2600年を記念してブリテンに委嘱し、「タイトルや内容が、奉祝曲にふさわしくない」との理由で演奏されなかったというシンフォニア・ダ・レクイエム 作品20」(1940)。冒頭の「I. ラクリモーサ」でカンブルランが文字どおり〝流れる涙〟の引きずるような音色を要求した(ように見えた)あたりから、音楽の密度が高まった。
休憩後は、ショスタコーヴィチの弟子ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ(1919-2000)のコンポジション第2番「怒りの日」(1973)。弦バス8本とピアノに打楽器(木製の箱)。パーカッショニストがソフトな槌と硬い槌を使い分けながら、後者では怒りをぶつけるように木箱を叩く。そもそも、この「9月3日は1941年にアウシュビッツで初めての大量処刑が行われた日」で、今回は「カンブルランの想いの込められたプログラム」だったとの由(読響HP)。本作も、理不尽な暴力への「怒り」を込める趣旨だったはずだ。ところが、演奏の前半で突然音が休止したとき、「こりゃだめだわ」と、数列前のおばさんの声がとてもクリアに聞こえた。その後、パーカッショニストが振り上げる硬い方の槌が、次第に、「制度としての音楽」しか受けつけようとしない保守的で〝頭の固い〟聴衆の頭を叩きつけているように聞こえてきた(反応から判断すると大半の聴衆がそのカテゴリー)。
最後はイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の詩篇交響曲(1930)。ヴァイオリンとビオラの不在が視覚化されるオケの配置。新国立劇場のコーラスが響いた途端、一気に、音楽の質が一ランク上がった。カンブルランのノリも全然違う。こころに沁みる素晴らしい演奏。高音(叙情)を受け持つ弦楽器が居ない分、聞き手はその渇きを人間の声に求めてしまう。コーラスがより一層ヒューマンに聞こえた理由だろう。
四曲とも追悼音楽といってよいが、どの作品も〝いわゆる〟を打ち破ろうとする精神が根底にある。刺激的でとても面白い。定演でこれだけ意欲的なプログラムが組めるとは。さすが、カンブルラン。この指揮者は、災厄(危機)に音楽(芸術)が寄り添うことの意義を深く認識しているのだと思う。
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。たしかにアドルノはそう言った(「文化批判と社会」『プリズメン』1949)。「アウシュヴィッツ」を「危機」もしくは「東日本大震災」に、「詩」を「芸術」にそれぞれ読み換え、文学や芸術に携わる者の戒めとすることも可能な一文ではある。だが、彼は13年後、上記の文章を「やわらげるつもりはない」としながらも、次のように付け加えている。

地獄のような現実アウシュヴィッツ東日本大震災等]の苦悩は[・・・]その苦悩が禁じている芸術の存続を要求しているのである。他のどこでこの苦悩は、おのれ自身の声を、ただちに自分をうらぎることのない慰めを、みいだすことができようか。(「アンガージュマン」『文学ノート』1962)

昨年8月6日(原爆記念日)に広島でカンブルランが指揮するモーツァルトの『レクイエム』を、同10月に細川俊夫のオラトリオ『ヒロシマ/声なき声』を、そして今回の革新的な追悼プログラムを聞きながら、災厄と芸術の関係に対するアドルノの深い洞察を何度も想起した。