新日本フィル #514 & #515 定期演奏会―インゴ・メッツマッハー Conductor in Residence 就任披露公演―

新日本フィルの2013/2014シーズン開幕はインゴ・メッツマッハーの〝Conductor in Residence〟就任披露公演となった(9月6日 19:15/すみだトリフォニーホール)。たまたま翌週のチケットを譲り受け、サントリーホール・シリーズも聴いた(9月14日)。

【トリフォニー・シリーズ 第514回定演】
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)作曲 交響詩ツァラトゥストラはかく語りき』 op.30
リヒャルト・ワーグナー(1813-83)作曲 楽劇『ワルキューレ』第1幕(演奏会形式)

ジークリンデ:ミヒャエラ・カウネ
ジークムント:ヴィル・ハルトマン
フンディング:リアン・リ
指揮:インゴ・メッツマッハー
コンサートマスター:崔 文洙

前半はシュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』。約一月前、アルミンクのラストコンサートでマーラーの第三交響曲を聴いたばかりだ。二人の作曲家は同じニーチェの書物(全四部の発刊は1891年)から霊感を受け、しかもほぼ同時期に(1896年)これらの作品を創作している。そうした因縁の両作を同じオケで聞き比べることができたのは意義深い。
メッツマッハーは相変わらずマッチョな指揮。骨格をきっちり押さえ、ぐいぐいと引っ張っていく。ただし、細部の仕上げはいまひとつの印象。
後半のプログラムもニーチェ絡みで、ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕。序奏はあまり立体的に響いてこない気もしたが、チェロのソロから一気にクオリティーが上がった。歌手たちも匂い立つような花崎薫の音色に触発され、ドラマが立ち上がり始めた(花崎は2011年新日本フィルを退団し本年二月大阪フィルに入団)。ミヒャエラ・カウネは新国立の『アラベッラ』に主演したとき、シュトラウス的な声の強度に物足りなさが残った。だが、今回のジークリンデでは役のヒューマンな感じとよく合っており、コンサート形式とはいえ、役を生きる入れ込みでよく好演した。ジークムントのヴィル・ハルトマンはニコリともせず(むろん笑うところなどほとんどないが)表情を変えずに歌う。朴訥で実直なジークムント。悪くない。だが、三人の中でフンディングの中国人リアン・リがもっとも質が高かった。声量、歌い回し、悪役の味、どれをとっても素晴らしい。歌手のプロフィールを見ると、カウネとハルトマンは本年11月にジュネーヴ大劇場でメッツマッハー指揮の『ワルキューレ』を歌うらしい(ハルトマンはロールデビューとの由)。今回はコンサート形式の第1幕のみとはいえ、よいリハーサルになっただろう。

サントリーホール・シリーズ 第515回定演】
モデスト・ムソルグスキー(1839-81)作曲(R.コルサコフ編) 歌劇『ホヴァーンシチナ』前奏曲「モスクワ川の夜明け」(1886初演)
アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)作曲 法悦の詩 op.54(1908)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-93)作曲 交響曲第5番ホ短調 op.64(1888)

指揮:インゴ・メッツマッハー
コンサートマスター:崔 文洙

オールロシア・プログラムの前半冒頭は歌劇『ホヴァーンシチナ』の前奏曲「モスクワ川の夜明け」。初めて聴いたが、河のせせらぎや小鳥のさえずりが、いま生まれたばかりのような音楽で、繊細かつふっくらと表出される。短い曲だが気に入った。間を置かずにスクリャービンの法悦の詩へ。ラヴェルワーグナー(『トリスタンとイゾルデ』)を合わせたような音楽。とても精度の高い演奏で、デイヴィッド・ヘルツォークによるトランペットのソロが素晴らしい。
後半はチャイコフスキーの五番。例の陰鬱な主題をクラリネットのソロが奏したのち、弦と管が遣り取りするあたりで、舞台からただならぬ空気が伝わってきた。まるで自分が作曲したかのような迷いのない、また容赦もない指揮。オケは、みな必死でついていく。快速のテンポで、楽章間をほとんど開けずに進んでいく。その結果、曲全体の見晴らしが俄然よくなり、ややもすると主題の反復がくどいと感じる曲だが、それも一切なかった。とても新鮮。甘えのない、殺気すら感じる苛烈な演奏で、強度はとても高いが、作り出される音楽に粗さは微塵もない。素晴らしい演奏。感動した。先週以上にブラボーが飛んだ(フライングは勘弁して欲しかったが、さほど気にならなかった)。
先週より、出来がよかった。時間の経過と共に、指揮者とオケの相互理解が進んだためだろう。例によってカーテンコールで崔が足踏みしながらオケは立たず指揮者に挨拶させようとした。メッツマッハーは一度は従ったが、なんと二度目は崔を力ずくで立たせてしまった。可笑しかった。やはりこの指揮者はフェミニンなアルミンクとは違い、かなりマッチョである。