小野寺修二 構成・演出『鑑賞者』

『鑑賞者』の初日を観た(8月29日 19時/あうるすぽっと)。

構成・演出:小野寺修二
脚本:高井浩子(東京タンバリン)
出演:斉藤悠、宮下今日子、小田直哉(大駱駝艦)、竹内英明、藤田桃子、南雲麻衣、山田真樹
美術:深沢襟 / 照明:磯野眞也 / 音響:佐藤こうじ / 衣裳:大野典子 / アニメーション:中田彩郁 / 舞台監督:北林勇人 / 広報:小仲やすえ / 制作:岸本匡史(あうるすぽっと
主催:あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)、豊島区
企画協力:ミューズ・カンパニー
企画制作:あうるすぽっと


平成25年度 文化庁地域発・文化芸術創造発信イニシアチブ


うーん。聴覚障碍者とのコラボというので、なにか発見があるかと期待したのだが。
聾者の二人(南雲麻衣・山田真樹)は、知らされなければ他の出演者と何も変わらない。障碍者としての〝個性〟は見えない。もちろん、ダンサーや俳優としての個性や熟度は個々に色々だが。
ステージにビデオカメラを持ち込んでのパフォーマンスから始まる。役者がテーブル上で数脚のミニチュア椅子を様々なかたちに配置する。スクリーンに映し出されたそのフォーメーションどおりに、ダンサーたちは大急ぎで舞台上の椅子を並べ替える。支配(頭)・被支配(身体)関係の形象化? 演技者が喋ることばを即座に別の演技者がタイプライターで打つと、スクリーンではその文字がワープロ画面のように映し出される。これは客席の聴覚障碍者にとっては字幕として機能するが、時にはタイプの方が発話を先取りしたり、かなり遅れて文字が現れたりもする。本来ことば(音声)は言葉(文字)に優先するはずだが、転倒した非本来的な関係を示唆したものか。いずれにせよ、こうした機器を用いての舞台は近年よく見かけるディヴァイス(チェルフィッチュやロベール・ルパージュ等)で、特に新味はない。必要だから使ったのだろう。他にはオレンジをめぐる遣り取りなど。ちなみに配布プログラムの表紙絵(左上)は舞台でも動画として使われるが、この劇場からさほど遠くない豊島区椎名町(千早)で後半生を過ごした熊谷守一の画風を思わせる。
女優の宮下今日子は時折手話を交えて台詞を吐く。俳優の齊藤悠は遠目には作家の島田雅彦似の、インテリ然とした存在感(父親の洋介氏にはあまり似ていない?)。小田直哉(大駱駝艦)は、サッカー選手の森本貴幸そっくりだが、まさに舞台で演じた猫のように自在な身体能力の持ち主。同じくダンサーの竹内英明は、白井剛の『静物画』でも感じたが、一定の強度と端正な味がある。小野寺の同志 藤田桃子は相変わらずユーモラス。南雲も山田も好演した。舞台で言葉を発するのは役者のふたりと藤田の三名だけ。
『異邦人』や『カラマーゾフの兄弟』等の文芸物では、ストーリーテラーとしての希有な才能を示した小野寺修二。パントマイムをベースとする小野寺の振付言語は、プロットレスの場合(水と油)、ややもするとたんに身体の動きを(たとえ名人芸でも)技術としてみせるだけのマンネリズムコジェーヴのいう「日本的スノビズム」もしくは形式主義)に陥りやすい。小野寺の才能は明確なフレーム(物語)がある方が生きると思う。今回の脚本(高井浩子)はどうだったのか。「鑑賞者」というタイトルや聴覚障碍者を出演させた意味合いが、客席からは分かりにくい。たとえば、後半で言葉の無意味(空疎)さを訴える台詞があったが、その内実を立体(身体)化する文脈が不明瞭なままでは、その台詞こそ空疎である。
たとえば、障碍者の視座から〝ことば〟と〝からだ〟について省察した演出家の竹内敏晴は次のように言っている。「障害(碍)を持っている人間は、自分が社会的にこれこれこういう形だとして扱われている、社会的存在としての客体としての自分と、自分の中で感じているオノレとのずれを年中意識させられている存在です」。「このズレなしに外からの視圧と同調してるままに動くのが、ぺらぺらしゃべるということでしょう」。だから、ぺらぺらしゃべるというのは「制度としての言葉をいかに操作しているかというだけの話であって」、演技者として「面白いということ自体は制度から外れているものが出てこないと成り立たない」と(対談「演じない演劇のために」竹内敏晴・山崎哲『理想』1985年10月号)。
小野寺の創る舞台は、ダンスと演劇(theatre)が渾然一体となっている。その意味では〝ダンスシアター〟といってよいのだろうが、先日、瀬山亜津咲による優れた〝タンツテアター〟を見た眼には、今回の舞台はやや物足りない。
瀬山(ピナ・バウシュ)の方法は、演技者たちの〝人生〟(history)を丹念に掬(救)い取り、その断片をコラージュしてフィクション(story)を作り上げる。いわば〝当て書き〟のような手法だ。一方、小野寺は、演技者の身体的な動き(組み合わせ)を本(物語)の枠組みに嵌め込んでいく。その際、質の高い物語(フレーム)の存在が、身体同士の信じがたい連鎖やめくるめくようなコンビネーションの創出に清新な動機付けを与えるのだろう。そこでは演技者の身体に刻まれた〝人生〟が意識的に投影されることはほとんどない。たぶん。それはそれでよいのだが、『鑑賞者』の舞台は、一定のクオリティを保っていたとはいえ、前述の文芸物で見せたような圧倒的な密度の濃い瞬間は不在だった。密度の濃さとは別のものを目指していたというべきか。その「別のもの」とは何だったのか。よく分からなかった。ただ、その目指すべき方向性やヒントが、瀬山/バウシュの方法にありはしないか。いいかえれば、今回の聾者の二人が瀬山のタンツテアターに参加していたら、と想像したくなるのだ。
シレンシオ」(未見)が7月に終わったばかりらしいが、会場で配られたチラシのなかには、小野寺作品がさらに四作分あった(進行中も含む)。少し忙しすぎるのかも知れない。