子供のためのシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』/芝居の粋がここにある/高度にブレヒト的な舞台

山崎清介脚本・演出の『ジュリアス・シーザー』を観た(7月14日 15時/あうるすぽっと)。

作:ウィリアム・シェイクスピア小田島雄志翻訳による)
脚本・演出:山崎清
照明:山口 暁
音響:角張正雄
衣装:三大寺志保美
演出補:小笠原響
舞台監督:堀 吉行


CAST
伊沢磨紀=キャルパーニア/トレボーニアス/ルーシャス
戸谷昌弘=シセロー/キャスカ/ルシリアス
若松 力=アントニー/リゲーリアス/ピンダラス
河内大和=キャシアス
北川 響=ディーシャス/オクテーヴィアス
山本悠生=ポーシャ/メテラス/メサーラ 
長本批呂士=占い師/シテ/ティティニアス
チョウ ヨンホ=ブルータス
山崎清介=シーザー/人形(エイテ/レピダス)


プロデューサー:峰岸直子
企画制作・主催:華のん企画
文化庁 文化芸術振興費補助(トップレベルの舞台芸術創造事業)


〝子供のためのシェイクスピア〟は以前テレビで見てずっと気になりながら、自分が「子供」でないためそのままに。今回、旧知の役者が出演するというので初めて見た。
テレビや映画などでは決して味わえない、演劇ならではの楽しさを満喫した。久しぶり。こんな舞台が作れるのは芝居の粋を熟知した人に限られよう。場面転換の軽快さ。このリズムは、かつて出口典雄が率いたシェイクスピアシアターを想わせる。だが、〝子供のため〟の舞台はいっそう洗練され、役者たちもずっと巧い。
文字どおり「子供」でも退屈せずに楽しめるよう、原作を巧みにアレンジし、休憩なしの二時間に収めている。シンプルなセット(かつて小学校にあったような木製机の組み合わせと小さな椅子)。効果満点の効果音(後ろで子供が囁く「雷音こわかったねえ」)。舞台にリズムを作り出す手拍子と囁き声。黒の外套に黒の帽子のコロス9名+人形。これらのコロスが群衆のみならず、様々な役に変身する。河内大和(キャシアス)とチョウ・ヨンホ(ブルータス)はコロスを除けば一役に専念するが、それ以外の役者は一人で何役もこなすのだ。その面白さ。
たとえば、「XXはまだか?」と誰かが問うと、XXは遅れて登場し「寝坊しました」などと言い訳をする。この裏には、もちろん、同じ役者がAの役からBの役に早変わりして登退場しなければならぬ事情がある。だが、脚本・演出の山崎清介は、その楽屋裏をわざと客席に分かるよう演出しているのだ。そこから生じる演劇的愉悦はなんと豊かなことか。子供たちのクスクス笑いが何よりの証しだ(もちろん大人も)。それだけではない。芝居をしながら、これが芝居であることをあえて自ら告げるこうした趣向は、ブレヒトの「異化効果」へと一直線につながっている。クスクス笑う子供たちは、舞台が作り出すフィクション(シーザー暗殺計画の謀議)を頭に描きながら、同時に、「演劇がひとを騙す」からくりを批判的に思考するのだ。これは、平田オリザが「アートリテラシー」と呼んだ〝能力〟の涵養であり、ブレヒトの「教育劇」と通底するものである。
人形の使い方も巧み。たとえば、ブルータスが内省にふける場面で、人形(山崎清介)が〝内なる自己〟としてブルータスとの対話役を務める。そもそも人形の存在そのものが非イリュージョン的だが、内省を人形との対話によって劇化することで、非イリュージョン的な要素を強め(これが芝居にすぎないことを観客に意識させ)、同時に、内省という人間の営為を想像的に舞台化してみせる。これなども、高度にブレヒト的な趣向のひとつといってよい。ポーシャを男(山本悠生)が演じるのもそう。
役者はみな芸達者だが、山崎清介は別格として、キャシアス役の河内大和(こうちひろかず)がたいへん印象的。台詞、身体の動きともに実に自在で、舞台で存分に生きることができる。昨年、カンパニーデラシネラの『カラマーゾフの兄弟』では長兄役を骨太に演じていたのを思い出す(新国立小劇場)。唯一女優の伊沢磨紀は絶妙の間で笑いのツボを外さない。〝子供のため〟に必要不可欠の役者であることがよく分かる。
チョウ・ヨンホは理想主義者のブルータスを好演。〝融通の利かなさ〟がよく出ていた(地なのか)。深い声に恵まれており、小声でも十分聴き取れる(強弱のレンジはもっと広げたい)。惜しむらくは、台詞に〝気〟というか〝生〟が感じられない時間が多少みられること。虚構を生きるスタミナの問題か(集中力?)。気合いも気力も横溢した河内を見習う必要あり。チョウは、良くも悪くも、脇役より主役でこそ活きるタイプ。新国立劇場研修所での試演会以外で、主要な役を演じたのはこれが初めてだろう。このチャンスを活かすためにも、今後は、よりいっそう精進しなければならない。
若い役者たちを育てようとする山崎清介の強い意志が伝わってきた。山崎がコロス(黒子)として後ろ向きに立っているときでさえ、彼らを見守る厳しさと愛情が、その背中からひしひしと感じられた。
二日前にブレヒトの『三文オペラ』を見たが(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20130715/1373884249)、この『ジュリアス・シーザー』の方がはるかにブレヒト的だった。