都響《戦争レクイエム》/せっかくの企画も、合唱団が・・・/オウエンの詩

ブリトゥン(ブリテン)の《戦争レクイエム》を聴いた(6月18日 19時/東京文化会館)。

第753回 定期演奏会Aシリーズ
《戦争レクイエム》作品66(1962)
作曲:ベンジャミン・ブリトゥン Edward Benjamin Britten(1913-76)
指揮:大野和士
ソプラノ:リー・シューイン
テノール:オリヴァー・クック
バリトン:福島明也
合唱:晋友会合唱団/合唱指揮:清水敬一
児童合唱:東京少年少女合唱隊/合唱指揮:長谷川久恵
合唱言語指導:アラン・ウッドブリッジ(フランス国立リヨン歌劇場合唱指揮者)
コンサートミストレス:四方恭子


大野和士はだいぶ以前から中韓日のソロイストによる《戦争レクイエム》を演奏してきた。ブリトゥンの意図を汲んでの大野らしい企画だが、いつも聞き逃してきた。
室内オケ(アンサンブル)はフルオケとその後方に陣取る混成合唱団の間に横一列に位置し、(室内オケの)下手端のパーカッションと中央の弦楽器に挟まれてテノールバリトンが歌う。聖歌隊混声合唱の後方、さらにその後ろにソプラノ。
都響は久し振りに聴いたが、オケは健闘したし、特に室内オケは質の高い演奏を聴かせた。東京少年少女合唱隊もよかった。だが、晋友会合唱団の精度と練度に問題があり、あまり芳しくない演奏会となってしまった。
上記の見慣れない配置の所為か、全体的に各セクションおよび声部とも音のバランスが悪く、トランペット(せっかくの名手)すらクリアに響いてこない(席は1階22列の右寄り)。結果、ブリトゥンにしてはいくぶん鈍重で、ドイツ音楽を聴いているようだった。聖歌隊はやはり「天上から響くよう」な工夫がほしい(5階席等に配置しなかったのは、客入れを優先したためか)。

ソプラノのリー・シューイン(中国)は硬質な歌声で好演。テノールのオリヴァー・クック(韓国)は "Move him into the sun" 等で演歌まがいの〝泣き〟が入ったが、柔らかい美声を聴かせた。バリトンの福島明也(日本)は知的な味を出しはしたが、昨秋《カーリュー・リヴァー》で見せたような安定感はいまひとつ。彼には音楽の内外共にもっとコミュニカティヴであってほしい。
今回はブリトゥンの生誕100年を期したプログラムだったとしても、近年、日韓・日中の関係がぎくしゃくしているだけに、たいへん意義深い企画となった。終演後の歓声が音楽的な出来の割に思いのほか大きく強かったのも、たんに大野が都響の次期音楽監督に就任が決まったためだけではないはずだ。(右の画像は1950年にYousuf Karshが撮影したBritten/出典はWikipedia
大野は若い頃から日本の音楽家にしては珍しく社会的かつ啓蒙的な志向を強く表に出してきた。音楽の作り方もまずは骨格をきっちり組み立てるタイプ。ただ、あまり〝美味しく〟ない。今回も音楽にあまり艶がない。知人曰く「だんだんサヴァリッシュに似てきたんじゃないの」。そうかも知れない。

それにしても、ブリトゥンは素晴しいレクイエムを書いたものだ。ラテン語典礼文が、ウィルフレッド・オウエンのドメスティックな詩文に相対化され、そらぞらしく響いてくる。ところで、画家のフランシス・ベーコン(1909-92)には、ベラスケスの『インノケンティウス10 世の肖像』(1650)に基づいた『叫ぶ教皇の頭部のための習作』(1952)等の連作がある(左の画像は1953年の『習作』/出典はWikipedia)。ベーコンは、第2バチカン公会議(1962-65)によりミサがラテン語ではなく各地域語で行なわれるようになると、教皇枢機卿の絵を描かなくなったらしい。二人ともイギリス人(ベーコンはアイルランド生まれだがBritish)で同性愛者だが、案外、思想にも共通するところがあったのかも知れない。
ただ、プログラムに掲載の歌詞の訳があまり正確でないのは残念だった。五年まえアルミンク指揮の新日本フィルで聴いたとき配布された対訳は的確だったが(箕口一美・渡辺和訳)。クライマックスのVI "Libera me" で歌われるオウエンの「不思議な出会い Strange Meeting」(1918)には鶴見俊輔の名訳があるので、全文を掲げておく。オウエン(1893-1918)は第一次世界大戦に従軍し25歳で戦死した。なお、作曲に当たりブリトゥンが削除した部分には【 】を、自作の二行に改変した部分は[ ]で括った。

 どうやら私は戦いの場から脱(ぬ)けたらしい。
 なにか深い、薄暗い隧道(トンネル)を通って、
 がんこな岩を長い間かけて戦争が掘りぬいた、丸天井をもつ場所に。


 そこには、しかし、眠りにつけない人たちがうめいていた。
 自分の思いに沈んでいるのか、もう死んでいるのか、身動きしない人もいた。
 さわってみると、なかのひとりが急に身をおこした。
 私を見つめるまなざしには哀れみがこもっていた。
 力なく両手をあげ、祝福するような身ぶり。
【彼の微笑で私にはわかった、この陰気な部屋が。
 死相を帯びたその微笑で、私は今地獄に立っていることを知った。


 千の苦痛に、その面影はいろどられてはいたが、
 地上で流された血のあとはもはやそこにはなかった。】
 砲声のとどろきはきこえず、かすかに送風管が悲しげな音をたてるだけだった。
「見知らぬ友よ」と私は言った、「悲しむべきことはここには何もありませんね。」
「何も」と相手はこたえた、「生きられなかった年月のことを除いては。
 もはや希望をもたずにここにいるしかありません。あなたに希望があったように私にもありました。
 この世で一番あらあらしい美を求めて私は狩に没頭しました。
【おだやかなまなざしやきれいに編まれた娘の髪型にやどる美しさとはちがって、
 時間にあわせたきまりきった動きをからかうような、
 もし悲しむとすればここで、よりゆたかに悲しめるような、美しさ。】
 私がたのしめばそこでたくさんの人たちがともに笑い、
 私が泣く時には、それでも何かそこにのこるはずだったから。
 それは今は死ぬ他ありません。それは、語られなかった真実、
 戦争の悲しみ、戦争のそだてた悲しみです。
 今は、私たちが心ならずもたらした戦利品にごまかされて人びとは今までどおりのくらしをつづけるでしょう。
 いや、満足せずに、いらだってまた殺しあいということになるでしょう。
 戦争屋はまた、虎のようなすばやさですばやく動き、
 世界の国々は臆面もなく進歩の大道からはずれて、軍の隊列を乱すものとてなく。
【私には勇気があった。現在をこえる不思議な予感も。
 私には知慧があった。自己をおさえる力も。】
 堅固な城壁なき見せかけのお城へと退却をつづける隊列から、ひとり離れるだけの力が。
 だから、戦車の道が流血でとざされた時、私は、きれいな水のわきでる泉からくんで洗おうとしました。
[血でよごされないほどの深みにまだかくれていた真実でもって、戦車を。
 私の心のたけをそのためにつかい果たしたかった。
 肉の傷口から流れだす血によってではなく、国に支払う税金としてでもなく。
 兵士の額の見えない傷口から、血はいつも流れてやみません。]
 友よ、私は、あなたの殺した敵です。
 この暗いなかでも、すぐに私にはあなたがわかりました。顔をしかめていたから。
 きのう、私をさし殺した時も、おなじように顔をしかめていました。
 私は、かわそうとしたが、両手は動かず、もうつめたかった。
 さあ、ともに眠りにつきましょう。」

         『たたかいの記憶――新・ちくま文学の森9』鶴見俊輔他編(筑摩書房、1995年)

ところで、東京文化会館へ来るたびに思うこと。ここで響きがよいと感じたことは一度もない。舞台を観るにも聴くにもロスが多い構造で、座席も幅・前後共にかなり狭く座り心地がすこぶる悪い。ここはオペラやバレエの引っ越し公演でもっとも多く使われる会場だが、そのチケット代が数万円もするのだからじつに割の合わない話である。ヴァーグナーなど長時間かかるオペラを見た日にはエコノミークラス症候群にもなりかねない。この会館を〝オペラ(バレエ)の殿堂〟と呼ぶひとたちの気が知れない。東京芸術劇場歌舞伎座のように、主催者ではなく観客/聴衆本位の改築をぜひ望みたい。