新国立劇場 演劇『象』/重苦しさが軽減

『象』の2日目を観た(7月3日 14時/新国立小劇場)。

『象』(1962/65)
作: 別役 実
演出: 深津篤史

美術:池田ともゆき
照明:小笠原 純
音響:上田好生
衣裳:宮本宣子
ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:川端秀樹
舞台監督:田中直明


配役
病人:大杉 漣
男:木村 了
看護婦:奥菜 恵
通行人1:山西 惇
通行人2:金 成均
白衣の男1/リヤカーの男:野村修一
白衣の男2:橋本健司
病人の妻:神野三鈴
医者:羽場裕一

2010年3月に上演された舞台の再演。ただし、前回は第1幕 65分/休憩 15分/第2幕 85分の正味150分。今回は休憩なしの130分で、20分刈り込んでいる。配役も、男が稲垣吾郎から木村了に、通行人2と白衣の男1(リヤカーの男)・2がそれぞれ変更されたが、他は同じ。
三年前の公演では大杉漣があまりに臭い芝居をするので唖然とした記憶がある。今回は多少改善されてはいた。それに時間が少し短縮された所為もあり、全体的にすっきりした感じ。前回(右がその時のプログラム)は、主役の荒い演技とフィクション性の不統一感に空間を覆う重苦しさ、さらに時間の長さ故か全体像が見えにくく、あまりよい印象は残っていない。
今回は、プログラムのカラー(左の画像)に見合う軽みが加わった。奥菜恵の看護婦は相変わらず不気味。病人の妻の神野三鈴はいい味を出している。生な身体性だが、フィクションを作り出せる。病人だけが前回ほどではないにせよ、そこからはみ出しがちだが。
通行人1(山西惇)と病人の妻、そして通行人2(金成均)との対話は秀逸だ。日常的なやりとりから、犯罪(レイプや殺人)へと至る不条理な道筋(偶然が必然となるプロセス)がリアルに可視化され、見事だった。山西の質の高さを改めて思い知らされた。
セットの古着の山は、死者の存在を表象しているのだろう。広島の平和記念資料館で被爆者の衣類や人形等の遺品を撮り続けた写真家がいる。その制作過程やカナダでの写真展を記録したドキュメンタリーが昨年テレビで放映された。古着というものは、かつてそれを身に着けていた人間を、今は不在の存在を、示唆するはずだ。だが、今回、山のように敷き詰められた古着のなかに役者たちが蹲ったり、そこからぬっと出入りしたりするのを見ても、死者を連想することはまったくなかった。というか、そもそも死臭をほとんど感じなかったのだ。なぜだろう。
前回との変化は、演出家の健康状態と無関係ではないように思われる。2010年は「重い病気とつきあって」いたらしい(小堀純/2010年プログラム)。そうした重苦しさが今回はいくぶん軽減され、その分、芝居としての美味や軽みが加わったのかも知れない。
(リンダ・ホーグランド監督のドキュメンタリー映画ひろしま 石内都・遺されたものたち」は7月20日から8月16日まで岩波ホールで上映するらしい。)