新国立劇場オペラ《夜叉ヶ池》/想像力を疎外する演出/海外に出せる日本のオペラを創るには

オペラ《夜叉ヶ池》の初日を観た(6月25日/新国立中劇場)。

[新制作/新国立劇場創作委嘱作品・世界初演
《夜叉ヶ池》全2幕 Yashagaike (Demon Pond)
 日本語上演/字幕付

作曲:香月 修 Katsuki Osamu
原作:泉 鏡花
上演台本:香月 修/岩田達宗
指揮:十束尚宏
演出:岩田達宗
美術:二村周作
衣裳:半田悦子
照明:沢田祐二
振付:古賀 豊
合唱指揮:三澤洋史
芸術監督:尾高忠明


<6/25(火)・28(金)・30(日)>
【白雪】岡崎 他加子
【百合】幸田 浩子
【晃】望月 哲也
【学円】黒田 博
【鉱蔵】折江 忠道
【鯉七】高橋 淳
【弥太兵衛/蟹五郎】晴 雅彦
【鯰入】峰 茂樹
【万年姥】竹本 節子
【与十/初男】加茂下 稔

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団


「日本のオペラが世界で認められるためには、世界の劇場でレパートリーになる日本のオペラ作品がなくてはならない」。「誰もが口ずさめる歌のあるオペラを」。芸術監督の言葉に一々納得し、ある種の期待を抱いて劇場に赴いた。
だが、厚塗りしたような鬱陶しいセット(美術)と、客席の心的参加を促す〝空白〟に乏しい、地べたを這うような演出に疎外され、肝心の音楽を気持ちよく味わうことが出来なかった(第二キャストの顔ぶれなら、あるいはもっとドラマが立ち上がったかも知れない)。
演出家によれば、「夜叉ケ池」となれば客は「大掛かりなスペクタクルを期待される筈」だが、悩んだ末に「演劇的手法だけで行こう」と決めたという(「Production note」/プログラム)。「演劇的手法」とは、「本水」や「映像」は「絶対に」使わずに「劇場本来の舞台機構――回り舞台やスライディングステージ――を駆使しつつ、照明と音楽だけで世界を表現」することらしい(同前)。そこには、「一番の舞台効果とはお客さまの『想像力を引き出す』もの」との考えがあるようだ(同前)。この考えには基本的に異存はない(「本水」等を使っても客の想像力を引き出すことはできると思うが)。
だが、「想像力を引き出す」点を最優先させたとはとても思えない舞台。あのように演出家のイメージをリアリズムで塗り込めてしまったら、ただ息苦しいだけで「想像力」を働かせる余地などほとんど見出せない。場面転換での「回り舞台やスライディングステージ」の多用も、どこかチグハグで、物語(作品世界)との必然性が感じられない(〝機械〟を無闇に動かして喜んでいるような印象)。そもそも場面が変わっても変化が乏しい。たとえば、1幕7場で晃が学円に鐘楼守になったいきさつを語る紗幕を用いたシークエンスなど、もっとスマートな、いいかえれば、〝詩〟を損なわないやり方はなかったのか。ラストで舞台(奥)がお定まりのように〝裂開〟しても・・・。エピローグで晃と百合は冥土(妖怪の世界)で永遠に仲睦まじく暮らすはずだが、そのイメージはいっさい示されないし暗示もない。「想像力を引き出す」というのは、本物の水や映像を利用しようとしまいと、要は、客の想像力をストーリーに沿って適切に(少なくとも作品世界のテクスチャーを壊さぬように)導いていくことであり、それがストーリーテリングとしての演出ではないか。

初日の主要キャストは一定の声量はあるが、ドラマが立ち上がらない。たとえば、冒頭の百合と晃の対話では、本来、ほのかなエロスが立ちのぼるはず。が、前者(幸田浩子)は妖しい色気を発揮するにはあまりに健康的だし、後者(望月哲也)は「凄いまでに美しい」「魔法つかい」(百合)に魅せられた「華胄(かちゅう)の公子」像から、歌唱も芝居も、ほど遠かった。逆に、僧侶で教授の学円(黒田博)の方がノーブルに見(聴こ)えた。白雪が鐘を落としてでも剣が峰へ行きたいと駄々をこねるシーンは、パジェントリーにしたのはよいが(ただしモダンダンスの振付はあまりに古い)、恋に突き動かされる姫のありようが見えない。そもそも、百合(人間)と白雪姫(妖怪)の〝相似形〟がまったく希薄(両者は「ただクロノロジックに前後しているだけの、相似形のような存在」澁澤龍彦岩波文庫版・解説)。
百合については、演出家の「Production note」を読むと、必ずしも歌手だけの問題ではなさそうだ。「僕はこのドラマを差別の物語だと感じ」「一種の身体障害としての差別の対象」とするため「百合の背中に8枚の鱗が生えているという」原作にない設定にしたとの由。幸田があのように健気で真面目な百合像を演じたのは、そうした演出に添った結果かも知れない。一方、原作での百合は「魔法つかい」等の属性が用いられ、この世のものとは別種の、妖しいイメージが付与されている。だが、もとより「原作戯曲を再構成する」のは別に構わない。村の子供を追加したのもOKだと思う。それでインテグラルな審美性が舞台に実現できるなら。「こうした改変は原作者に怒られるかもしれませんが」と演出家はいうが、むしろ、舞台における審美性(耽美性)の欠如にこそ、原作者は怒るのではないか(差別云々の解釈にも驚くだろうが)。
音楽は、ラヴェル等のフランス音楽を想起させる部分もあり、聴きやすく分かりやすい。芸術監督の意向に添った創作だったのだろう。ただ、「世界の劇場でレパートリーになる」かといえば、残念ながら首を傾げざるをえない。
考えてみれば、そもそも先に触れた芸術監督の二つの意向は両立が難しいのではないか。「誰もが口ずさめる歌のあるオペラ」で「世界の劇場でレパートリーにな」っている作品が、ここ五十年いや百年以内にどれほど書かれているのか。誰もが口ずさめなくとも、もう一度聴きたくなるような質の高いオペラ作品を目指す方がまだしも現実的ではないか。この劇場のレパートリーでいえば、『ピーター・グライムズ』(1945)や『ヴォツェック』(1925)、『ルル』(1928未完/補筆版初演1979)などは、口ずさめないけれども、ぜひもう一度聴きたいと思う。
今後、劇場に望みたいのは、作曲家をはじめ、演出等のスタッフも、すべてひろい視野で人選してほしいということ。いいかえれば、われわれサブスクライバーのインターテクストをもっと考慮に入れてほしいのだ。今回の公演に上記のような感想を抱かざるをえないのには理由がある。われわれは、近いところでは『コジ・ファン・トゥッテ』(6月)や『ナブッコ』(5月)、『アイーダ』(3月)等々の音楽と演出を見/聴いたコンテクスト(インターテクスト)において、『夜叉ケ池』を見/聴くのである。もちろん、ヴェルディモーツァルトと比較される現役作曲家は気の毒だが、演出に関しては必ずしもそうではない。ゼッフィレッリと比べるのはどうかと思うが、たとえば、ビントレーのバレエ『パゴダの王子』(2011年10月)のような舞台演出(美術はレイ・スミス)と今回の舞台を比較しても恣意的とはいえないだろう。両者とも日本の妖怪が出没し、水(海)のイメージが重要なファクターだったのだから。
ところで昨年、東京では細川俊夫の作品を集中して聴く機会があり、作曲家としての力量を知ることが出来た(「細川俊夫ポートレート」5月20日東京オペラシティ リサイタルホール、『星のない夜――四季へのレクイエム――ソプラノ、メゾソプラノ、2人の語り手、混声合唱とオーケストラのための』を含む「細川俊夫の世界」5月24日/同 コンサートホール、「2012年度 武満徹作曲賞 本選演奏会――一人審査員 細川俊夫」5月27日/同 コンサートホール、『ヒロシマ/声なき声――独唱者、朗読、合唱、テープ、オーケストラのための』10月27日/サントリーホール万葉集に曲を付けた「恋歌I」から二つの大規模なオラトリオ(「星のない夜」はマーラー・チェンバー・オーケストラの委嘱作、「ヒロシマ/声なき声」はバイエルン放送局が主催するミュンヘンの現代音楽祭「ムジカ・ヴィヴァ」の千年紀記念の委嘱作)に至るまで、どの作品も再度聴きたくなる質の高さを備えていた。〝日本の若い人は偏狭なナショナリストに陥ることなく日本の過去を知る必要がある〟と説く細川俊夫のような作曲家にこそ、ニュー・ナショナル・シアター・トウキョウはオペラを委嘱すべきではないか。すでに海外で評価されている細川なら、世界に出せる日本のオペラを創り出せる可能性はかなり高いと思われる。