マギー・マラン『Salves −サルヴズ』/ベンヤミンの「歴史の概念」など

マギー・マランの『Salves −サルヴ(ズ)』を観た(6月15日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)。

演出・振付:マギー・マラン Maguy Marin
共同演出:ドゥニ・マリオット Denis Mariotte
出演:カンパニー・マギー・マラン Compagnie Maguy Marin
 ユリーズ・アルヴァレス、ロメイン・ベルテ、カイ・チョウイビ、ラウラ・フリガート、ダフネ・コウツァフティ、マヤレン・オトンド、ジャンヌ・ヴァローリ
アシスタント:エニオ・サマルコ
技術監督・照明デザイン:アレクサンドル・ベネトー
舞台装置:ミシェル・ルソー
小道具:ルイーズ・グロ、ピエール・トレイユ
衣裳デザイン:ネリー・ジェイル
音響:アントワンヌ・ガリ
主催:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団


タイトルのSalves(サルヴ)はフランス語で「一斉射撃」の意。
舞台を見ながら何度もベンヤミンの名が頭に浮かんだ。歴史に刻印された野蛮/暴力。割れた皿や壷のイメージ。戦利品としての文化財・・・。以下は、覚えている範囲での恣意的なメモ。
舞台は作業場の室内のようなセットで、正面の壁際に作業台が二つ、テープ(ビデオ?)レコーダーが数カ所に置かれている。
舞台奥から普段着の男が現れ、細い糸をつまんで手繰るような仕草をしながら手前の方へ近づいてくる。客電は点いたまま。やがて男は客席に座る別の女性に舞台へ上がるよう促し、彼女も細い糸を凝視しながら手繰り始める。今度はその女性が客席から別の人間に促し・・・。こうして七名の男女(ダンサー)が舞台上のあちこちで一本の糸を見つめながら手繰っていく。
彼らが手繰っているのはおそらくビデオテープなのだろう(キース・ウォーナー演出の『指環』では8ミリ(ビデオ)フィルムが歴史/時間を表象する小道具として巧みに使われていたのを思い出す)。ほら、ここには興味深い歴史が収録されているよ。客席の君もこちらに来て見てご覧。それから君も。こんなことがあったんだよ、と。
暗転を機に数台のテープが回り出すと、世界史の一齣が舞台で展開され始めるというわけだ。だが、ほぼ深い闇に閉ざされている上にハイスピードでシーンが転換するため、そこで何が起きいるのかあまりよく見えない/分からない。断続的に聞こえてくるざわめき音はヨーロッパやアメリカの言語らしいが、ラジオニュースが混線しているかのようではっきり聞き取れない。歴史(=いまここの集積)だって同じだと言いたいのだろう。
・・・闇の中で人々がかけ声と共に木材のようなものを次々に手渡していき、テーブルの天板を組み立てる。そこへテーブルクロスを掛け、皿を乗せ、花瓶を置く。だが、ひとりが皿を、あるいは花瓶を割ってしまう。本人は嘆き、途方に暮れる。他の者は動作を停止し、非難するような表情でその者を見つめる。また、別の場所で木材の手渡しと天板の組み立て、テーブルメイキング等を繰り返す・・・。これは社会を組成し、秩序を築くことのメタファーか。そのプロセスには、割れた花瓶や皿を前に呆然とするメイド等の下働き=一般民衆が関わっていたということ? テーブルでディナーをとり、花瓶に生けられた花を愛でるのは結局は一部の特権階級にすぎない?
・・・闇の中で人々は名画や彫像を投げては受け取り、投げては受け取る動作を繰り返す。ここから、二つのことを連想した。ひとつは、フジテレビで放映中のドラマ「TAKE FIVE」。単純に、舞台の仕草と、窃盗団(義賊)がダ・ヴィンチの名画を盗むドラマの場面とがダブって見えたのだ。もうひとつは、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の絶筆といってよい「歴史の概念について」(1940)。

それ[文化財]は、その存在を、それを創造した偉大な天才たちの労苦に負っているだけでなく、作者たちと同時代のひとびとののいいしれぬ苦役にも、負っているのだ。それは文化のドキュメントであると同時に、野蛮のドキュメントでもある。そして、それ自体が野蛮から自由ではないように、それがひとの手から手へつぎつぎと渡ってきた伝達の過程も、野蛮から自由ではない。(野村修 編訳『ボードレール 他五篇――ベンヤミンの仕事2』岩波文庫

舞台で絵画や彫像(文化財)が「ひとの手から手へつぎつぎと渡って」いくシークエンスを見て、上記の有名な条りにヒットしたひとは少なくないはず。たぶんマランのイメージソースにはベンヤミンのテクストが含まれていたのだろう。そう思う理由は他にもある。

舞台の名画はドラクロワの『民衆を導く自由(の女神)』(1803)、ピカソの『ゲルニカ』(1937)、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日(ピリンシペ・ピオの丘での虐殺)』(1814)等。前二作は壁に掛けられるが、すぐにずれ落ちる(名画ならぬプレスリーのポスターを女たちが壁に貼るシーンでは、ずれ落ちるどころかポスター貼りの女自体が増殖した。丸ごと複製されたみたいに。米国では名画よりポップスが文化財? しかも複製可能? ベンヤミンが論じたのは複製技術時代の〝芸術作品〟だが)。ただしゴヤの場合、扱いが先の二作品とは違っていた。


・・・ベケットの芝居に出てきそうな白髪の老婆(「TAKE FIVE」で倍賞美津子扮する浮浪者にもそっくり!)たちが、額縁の束を持ってくる。一番手前の額には写真が入っており、仏・米・露等の首脳が映っていた(たぶん)。つまりベンヤミンのいう「こんにちの支配者たち」だ。先の引用の数行前にはこう書かれていた。

こんにちにいたるまでの勝利者は誰もかれも、いま地に倒れているひとびとを踏みにじってゆく行列、こんにちの支配者たちの凱旋の行列に加わって、一緒に行進する。行列は、従来の習慣を少しもたがえず、戦利品を引き廻して歩く。戦利品は文化財と呼ばれている。(同書)


老婆らは束から次々に絵画を取り出し、表面を磨く(識別できたのは最後のゴヤの絵だけだった)。三作品の主題は、大雑把にいえば、「市民革命」「戦争(空爆)の惨禍」「市民の虐殺」だ。歴史の節目に刻印された「野蛮のドキュメント」といってよい。各絵の画像を見てみると、いずれにも〝一斉射撃(salves)〟等により「地に倒れているひとびと」(非戦闘員の死体)が描き込まれていた(貼付画像の出典はWikipedia)。
・・・舞台上手奥に、ローマ教皇もしくは高位聖職者があわてて逃げ出す場面や国王が剣を喉に突きつけらる場面が垣間見える。たまたま前日に見たブレヒトの『ガリレイの生涯』(1938-56)では、教皇枢機卿たちは世俗的権力を表すものとして登場する。ついでにいえば、ベラスケスの『インノケンティウス10 世の肖像』(1650)に基づくフランシス・ベーコンの『叫ぶ教皇の頭部のための習作』(1952)等を先日見たばかりだ。ベーコンは、第2バチカン公会議(1962-65)によりミサがラテン語ではなく各地域語で行なわれるようになると、教皇枢機卿の絵を描かなくなったという。いずれにせよ、二つのシークエンスは世界史らしいヴィジュアルではある。
・・・戸口に佇む女性。見/聞いてはいけないものを見/聞いているような表情。その陰から伸びた手が彼女の眼や耳を覆う。これも何度か繰り返される。「文化のドキュメント」に隠された「野蛮」な現場(歴史)は「見ざる、聞かざる」か。
・・・作業台に六名が並んで座ると、台の下から褐色の大きなお尻が迫り出し、黒人女が現れる。女は台の右端(上手)に無理に座ると左端の人間が台から落ちてしまう。このシークエンスも何度か反復され、二度目は兵士(テロリスト?)が、三度目に出てきて他を押しのけたのは、〝普通の男〟だった。このとき中ほどにはドラクロワの描いた自由の女神に扮した女が座っていたと記憶する。歴史の舞台に登場する者が時代によって入れ替わる機微をコミカルに風刺したのか。
・・・最後は、例の天板を組み立てテーブルを整える作業がおおっぴらに行なわれ、大きなテーブル上に豪華なディナーが用意される。この場面に闇がいっさい存在しないのは、歴史の「現在」を示唆しているからか(かつて多木浩二が言ったように「過去」同様「現在」も完全には認識できない未知の部分を含まざるをえないのだが)。ここでの主役は平民だ。だが、ひょんなことから身体がぶつかると互いに我欲をむき出しにし始め(札束が見えたから金銭がらみか)、緑のペンキが入ったバケツを相手の頭から被せる等、大乱闘に至る。すると、キリストの像を吊り下げたリモコンのヘリコプターが登場し、舞台上をしばらく飛んだ後、暗転となる。これはフェリーニの『甘い生活』へ言及したものらしいが、映画はほとんど見ないので分からない。
ただ感じたのは、もはや天から「ひとびと」を吊り支える超越的存在(神)のいないデモクラティックな現代社会では、些細なことからいったん争いが起こると抑えが利かなくなるということ。逆に、超越者を象ったミニチュアのキリスト像の方が玩具のヘリに吊り下げられるご時世の滑稽さ。歴史の闇に閉ざされた「地に倒れているひとびと」への共感が舞台の大半で〝美的に〟示唆され、最後は、いまや金銭以外準拠すべきものを失った「ひとびと」の平板な社会がドタバタ風に皮肉くられて終わった。そんな印象だ。面白くてあっという間だった。
[当日アフタートークがあったようだが、マランが出ないため早々に帰宅した。ダンサーたちは何を喋ったのだろう。]