文学座『ガリレイの生涯』/後味は悪くないが

文学座公演『ガリレイの生涯』の初日を観た(6月14日/あうるすぽっと)。

作:ベルトルト・ブレヒト
訳:岩淵達治
演出:高瀬久男
装置:石井強司
照明:賀澤礼子
音楽:芳垣安洋高良久美子
音響効果:藤田赤目
衣裳:前田文子
舞台監督:寺田 修
演出補:五戸真理枝
制作:矢部修治、佐藤竜太郎
票券:鈴木美幸


キャスト
三木敏彦、石田圭祐、大滝 寛、中村彰男清水明彦、高橋克明、沢田冬樹、鈴木弘秋、木津誠之植田真介、亀田佳明、釆澤靖起、南 拓哉、山本道子、鈴木亜希子、牧野紗也子、永川友里、金松彩夏、増岡裕子


共催 :あうるすぽっと
後援:ドイツ連邦共和国大使館、公益財団法人 日独協会、東京ドイツ文化センター、在日ドイツ商工会議所


劇団所属の演出家による本公演の演出には独特のむずかしさがあるのか。昨年、演劇集団 円で『ガリレイ』を見たときも同種の感想を持った(千田是也訳/森新太郎演出)。
廻り舞台を使ったシンプルなセットに、チェロやクラリネットなど生の音楽が手作り感を添える。特にチェロは素人の素朴さ。効果音代わりに使ったようだ。タイトルロール以外はみな複数の役をこなす。各場冒頭に記されたフレーズは、沢田冬樹によって語られた。なんというか、ガリレイ役の石田圭祐をはじめ舞台全体にあまりニュアンスが感じられず、これといった新味も見出せなかった。後味は悪くないのだが。
石田は脇役だとじつに好い味を出す。が、今回は、膨大な台詞を大過なく喋ることが優先されている印象で(初日のため致し方ない面もあるが)、ガリレイ像の奥行きを造形するまでには至っていない。学者としてのカリスマ性が感じられないのは、作者自身の「覚え書」を遵守したためか。

この作品の「主人公(ヒーロー)」はしたがって、ヴァルター・ベンヤミンが指摘したように、ガリレイではなく、民衆である。(岩淵達治訳)

なるほど。これは、自説を曲げたガリレイに「英雄のいない国は不幸だ!」と憤慨するアンドレアに対し、「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」とガリレイが応答する台本と符合している。では、民衆がヒーロー(主人公)に見えたかというと、そうでもない(10場の市の広場はもっと工夫の余地はなかったか)。そもそも、人物を立体的に彫り込むのと、英雄的人物造形とは別である。
ブレヒトヒロシマへの原爆投下を知ったのち書き換えた場面には演出家の強い思い入れを感じた。14場の、初稿より大幅に強まったという「ガリレイの自己断罪」だ。宗教裁判所で地動説を撤回後、教会の囚人となったガリレイを、かつての愛弟子アンドレアが訪ねてくる。年老いたガリレイは中年になったアンドレア・サルティにいう。

(学者臭く、両手を腹の上に組んで)[・・・]私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ。もし科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のための知識を積み重ねることだけで満足するようになったら、科学は片輪にされ、君たちの作る新しい機械もただ新たな苦しみを生みだすことにしかならないかもしれない。[・・・]そして君たちと人類の溝はどんどん拡がって、遂には君たちが何か新しい成果を獲得したといってあげる歓喜の叫びは、全世界の人々がひとしなみにあげる恐怖の叫びによって答えられることにもなりかねない。[・・・]私が抵抗していたら、自然科学者は、医者たちの間のヒポクラテスの誓いのようなものを行なうことになったかもしれない。自分たちの知識を人類の福祉のため以外には用いないというあの誓いだ! ところが現状で期待できるのは、せいぜいどんなことにも手を貸す、発見の才ある小人の族輩(うからやから)にすぎない。それにね、サルティ、私は一度だって本当の危険にさらされたことはなかったのだと思うよ。数年間は私はお上(かみ)と同じ力を持っていたのだ。だのに私は、自分の知識を権力者に引き渡して、彼らがそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまった。(岩波文庫版)

「未来の科学者が新しい成果に歓喜する叫びが、人類の恐怖の叫びで答えられる」という条りは、アメリカによるヒロシマナガサキへの原爆投下なしにはありえなかった。また、「科学的知見を権力者(お上)に引き渡し、「お上」がそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまった」――これは、いまわれわれが直面する原発問題を鮮烈に照射する。石田圭祐はこられの長台詞を明確なイメージを抱いて吐いていたと思う。
その結果、続く最終場(15)の冒頭で沢田冬樹(ブレヒト?)が発する言葉に血が通った「・・・君たちは科学の光を慎重に管理し/それを利用し、決して悪用するな。/いつの日かそれが火の玉となって降り注ぎ、/われわれを抹殺することのないように、/そうだ、根こそぎにしないように」。
ただ、石田の自己批判は(特に末尾で)泣きが入り、パセティックに流れた感がある。結果、撤回(転向)以前のさほど感情を交えない(叙事的な?)台詞回しと演劇的な不整合が生じてしまった。もっとも、不整合といえば、岩淵も指摘するように、「ブレヒトはもともとは殉教者的な英雄の劇を嫌った人であったが、改作の段階で殉教者とならなかったガリレイを断罪し、結果的には殉教を肯定してしまったことにもなる」(解説)。つまり、書き直しにより、作品自体にも矛盾(不整合)が生じていたのである。
アンドレアを演じた亀田佳明は台詞も動きも自在で力があり、素晴しかった。『ナシャ・クラサ』で初めて見たが、『るつぼ』(新国立劇場)では悪役のホーソン判事を見事に演じていた。『ハムレット』のタイトルロールなど適役ではないか。
ルドヴィーコ・マルシーリ役の釆澤靖起も眼についた。『ナシャ・クラサ』での好演はいまでも強く印象に残っている。『ナシャ・クラサ』のドテ役で輝いていた牧野紗也子は、ガリレイの娘に抜擢された。安定しているし悪くないが、ヴィルジーリア造形としてはいまひとつはっきりしない。これは役者へというよりも、演出家への疑問である。
植田真介はコジモ・ディ・メディチ(トスカナ大公)の9歳から32歳までを痛快に演じ分けた。また、唯一音源を用いた舞踏会の場面(7)で、仮面を付けた男性がルネサンス風の曲をアカペラで歌った。伸びやかな素晴しいテノールだった。誰だろう。声は釆澤靖起に似ていると感じたが定かでない。いずれにせよ、文学座では才能ある若手がたくさん育っているようだ。
今回は、昨年のアトリエ公演に比べると、演出家の創意や着想が十全に舞台化されていないような印象を受けた。ブレヒトに、というか、翻訳者の意向に寄り添いすぎたのではないか。
岩淵訳は、千田是也の後発の分、より正確かも知れないが、あまり「美味しくない」。谷川道子の新訳(2013年1月)があるとは知らなかった。ぜひ読んでみたい。