BCJ #102定期演奏会:復活祭の初期カンタータ集/空気がいつもと違う/プログラムの対訳について一言

BCJの第102回定期演奏会を聴いた(5月31日/東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル)。

教会カンタータ・シリーズ Vol.65【復活祭、精霊降誕祭の初期カンタータ集】


オルガン前奏
J. S. バッハ(1685-1759):
プレリュードとフーガ ハ長調 BWV 531
おお、神の子羊、罪もなく BWV 618
いざ来ませ、造り主なる神、聖なる霊 BWV 667


J. パッヘルベル (1653-1706):カンタータ《キリストは死の縄に縛められ》PWV 1205
J. S. バッハ:カンタータ《キリストは死の縄に縛められ》BWV 4


J. S. バッハ:カンタータ《天は笑い、地は歓呼せん!》BWV 31
J. S. バッハ:カンタータ《高らかに響け、歌よ》BWV 172


ハナ・ブラシコヴァ(ソプラノ)/青木洋也(カウンターテナー)/櫻田亮テノール)/ドミニク・ヴェルナー(バス)
バッハ・コレギウム・ジャパン

BCJの定期では器楽奏者が出てくるとまず軽く拍手が始まる。奏者のチューニング後、コーラス(ソロイストを含む)が登場すると強めの拍手が起こり、鈴木雅明氏の登場で拍手の熱さは頂点に達する。これが定期のいつもパターン。だが、今回は少し様子が違った。少しゆるいのだ。拍手が。考えてみれば、この2月に教会カンタータ全曲演奏(録音)が達成されて後、これが初めての定演だった。この偉業は、むろん、鈴木雅明をはじめBCJのメンバーやスタッフ等によって為されたもの。それは間違いない。だが、一方で演奏会は聴衆なしには成立しない。これもまた事実。聴き手のなかには、そこに深くかつ熱く関わってきたひとが少なからずいたはずだ。その偉業がひとまず終わったことで聴衆もある種の緊張から解放され、多少の弛みが出た。そういうことではないか。それが、いつもと若干異なる空気を作り出したのだと思う。
冒頭のオルガン演奏は鈴木優人。一曲目は若さの迸りが、二曲目は内省的な祈りが、三曲目は力強さと華やかさが、それぞれ伝わってきた。
パッヘルベルとバッハのカンタータ聴き比べは大変面白かった。同じ歌詞なのにこうも違うのか。前者はいかにもいわゆるバロックという感じ。歌謡風で少し頽廃味もある。直後にバッハを聴くと、後者がいかに緻密かつ構築的であるかよく分かる。そこに歌(抒情性)もあるのだ。とても新鮮に響いた。
鈴木秀美のチェロはいつもながら素晴しい。ゴツゴツと前進するような弓の運びと匂い立つような音色が実に心地よい。そこに鈴木優人のオルガンが加わり、極上のコンティヌオが形成される。トランペットのジャン=フランソワ・マドゥフが時々目を閉じ聞き入っていた。
今回は四人のコンチェルティスト(ソロイスト)のうち二人が日本人(青木洋也・櫻田亮)。共に質が高く、まったく遜色がない。櫻田の美声、青木のめざましい成長。ただ、後者は《高らかに響け、歌よ》の5. アリアでは「聖霊」として「魂」(ハナ・ブラシコヴァ)に「わが子よ」と呼びかけるのだが、精神的な構えをもっと強くしてもよいと思った。
もちろんコーラスは相変わらず素晴しい。その歌唱にどことなく解放感のようなものを感じたのは気のせいか。

プログラムの対訳について一言。
18世紀に創られたカンタータの歌詞を翻訳する場合、その意味合いだけでなく、いまのドイツ語との距離をも考慮に入れて、文語体を採用する意図は理解できる。じっくり読んで味わうための永久(?)保存版としてはそれもアリだろう。だが、プログラムに掲載する場合、対訳は、コンサートの会場で買い求めた聴衆のプラグマティックな用途に供される。つまり、カンタータを聴きながら見て/読んでその意味を理解するためだ(むろんドイツ語を聴きとれる者は別だが)。この場合、見て/読んで瞬時に意味が飲み込めなければそれこそ意味がない。意味はよく分からないが格調の高い文語体の方がなんとなく有り難い、といった向きもあろう。だが、それは、《キリストは死の縄に縛められ》の作詞者ルターの精神に反するのではないか。BCJの聴衆は平均年齢がかなり高めだが、より若い未来の聞き手のためにも、リニューアルされたプログラムの清新なデザイン(アートディレクション:田村吾郎/デザイン:小池俊起)に見合う口語体での対訳をぜひお願いしたい。
(会場にアメリカ人らしい若者たちの姿が眼についた。2日後に鈴木雅明が指揮するイェール大学の合唱メンバーかも知れない。)