《無限大∞パイプオルガンの宇宙—バッハから現代を超えて》オルガンとダンスのコラボ/撓やかなオルガン/ダンスへの異和

《無限大∞パイプオルガンの宇宙—バッハから現代を超えて》を観た(4月12日/東京芸術劇場コンサートホール)。

構成・演出・振付・照明:勅使川原三郎
ダンス:勅使川原三郎、佐東利穂子、KARAS
オルガン:鈴木優人
演奏曲目:
 即興(M)
J. S. バッハ(1685-1750)
 パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582(B)
J. P. スウェーリンク(1562-1621)
 半音階的ファンタジア(R)
コラール
 〈人よ、汝の罪の大いなるを嘆け〉(B)
J. S. バッハ(1685-1750)
 コラール前奏曲〈人よ、汝の罪の大いなるを嘆け〉BWV 622(B)
 コラール前奏曲〈主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる〉BWV 639(B)
 〈いざ来ませ、異邦人の救い主〉BWV 599(B)R?
D. ブクステフーデ(ca.1637-1707)
  パッサカリア ニ短調 BuxWV 161(R)
O. メシアン(1908-1992)
 《キリストの昇天》(M)
  第1楽章 自らの栄光を父なる神に求めるキリストの威厳
  第2楽章 天国を希求する魂の清らかなアレルヤ
  第3楽章 キリストの栄光を自らのものとした魂の歓喜の高まり
  第4楽章 父のみもとへ帰るキリストの祈り
 即興(M)


(R)ルネッサンス・オルガン[17世紀初頭/オランダ]a=467Hz ミーントーン調律法
(B)バロック・オルガン[18世紀/中部ドイツ]a=415Hz バロック調律法
(M)モダン・オルガン[フランス/シンフォニックタイプ]a=442Hz 平均律に近い調律法

パイプオルガンとダンスのコラボレーション。
鈴木優人がバッハ・コレギウム・ジャパンBCJ)の定演でチェンバロを弾き始めたのは2007年ぐらいか。カンタータ第29番では華麗なオルガン・オブリガートで聴衆を魅了した(2011年9月/東京オペラシティ コンサートホール)。ピッチの理由から小型のポジティフ・オルガンが使用されたが。定演のオルガン前奏はいつもは今井奈緒子だが、2011年2月と6月は鈴木優人が弾いた。特に6月定期は震災犠牲者の追悼演奏会となり、優人氏は J. S. バッハのオルガン・コラール〈我ら苦難の極みにある時も〉とモテット〈おおイエス・キリスト、わが命の光よ〉を弾いた。素晴らしかった。父雅明氏のオルガンコンサートをやはりこの東京芸術劇場で聴いたことがある(2004年10月)。雅明氏の演奏は大胆で華やか。作品の骨組みをしっかり捉えながらも、即興のような味がある。そんな印象だった。
今回優人氏はモダンとバロックを曲目によって自在に弾き分けた。その華麗さは父親譲りだが、撓やかさは独自の美点だろう。冒頭のモダンオルガンによる即興は、まず地響きのような超低音が聞こえてくる。ヴァーグナーの《ラインの黄金》冒頭を想起した。世界の生成のイメージか。そして超高音も。まるで聴覚検査のようだ。面白い。その後、モダンからバロックへとオルガンが回転している間(オルガン部は暗転のため見えないが)、舞台の上段で二人の女性がタップを踏んだ。床の音が増幅される仕組み。バッハの《パッサカリアとフーガ》の後、スウェーリンクの《半音階的ファンタジア》が奏された。ミーントーン調律法で聴くと、平均律に慣れた耳には調子外れに聞こえるのだが、妙な味がある。エルヴェ・ニケが指揮するル・コンセール・スピリテュエルの《水上の音楽》や《王宮の花火の音楽》を想い出した(2008年10月/東京オペラシティ コンサートホール)。あのときのナチュラルホルンやナチュラルトランペットの感触に近い。われわれがどっぷり浸かっている近代そのものが前近代から相対化されたような感じ(ルネサンスは前近代ではないのだが)。ところで、配付された紙片にはバッハの〈いざ来ませ、異邦人の救い主〉BWV 599はバロック調律法(B)と記されていたが、これもミーントーン調律法(R)で演奏されたように思う。
勅使川原三郎の構成力や演出力は高く評価できる。オペラ《トゥーランドット》の演出はとても面白かったし(2000年4月/オーチャードホール)、『ラジパケ Raj Packet』は傑作だったと思う(2000年12月/新国立中劇場)。『ルミナス Luminous』(2003年7月/シアターコクーン)、『ガラスの牙』(2006年12月/新国立中劇場)、『消息』(2007年9月/新国立小劇場)・・・どれを取っても、その斬新な舞台作りには目を見張るものがある。ただし、同時に、自身の踊りから滲み出る〝自己愛〟には、どうしても違和感を覚えてしまう。今回は、単旋律で演奏されたコラール〈人よ、汝の罪の大いなるを嘆け〉だけは、音楽に傾注しながら(自己を忘れて?)丁寧に踊ったためか、そうした異和はさほど感じなかった。が、あとは、例のみずからのファンタジーに浸ったパントマイムのような振りで、これまで何度も見たことのある動きの繰り返し(モーツァルトがバッハになってもさほど変わらない)。佐東利穂子はメシアンの《キリストの昇天》第3楽章での切れ味鋭い動きが印象に残った。他は従属的な動きに見え、スポンテイニアスなものが感じられなかった。
勅使川原の演出力や構成力は大したものだとしても、人をセットや小道具のように用いるやり方には違和感がある。彼は『ラジパケ』以来、動物や盲人等、いわゆるプロのダンサーとは異質の存在を舞台に乗せ、共演(?)してきた。あたかも、みずからのナルシシズムを抑えるためにそうした〝他者〟を必要しているかのように。少なくとも私にはいつもそう見えた。その度に、カントではないが、動物はともかく、人が目的ではなく手段として扱われているように感じ、異和を覚えるのだ。本人にすれば善意(慈善)からやっているということになるのかも知れない。だが、見る度に必ずそうした感触が残る。それは、プロのアーティストと共演した際にも付きまとう。たとえば、彼は2011年のフォル・ジュルネでシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を歌手や器楽奏者と共演した。あのカーテンコールで、歌手はともかく奏者たちが、手柄を独り占めするダンサーの後ろで、どこか白けたような表情を浮かべていたことを想い出す。今回のカーテンコールにも不自然さが感じられた。毎回、鈴木優人と手を繋いでレヴェランスするのはおかしい。その都度、優人氏ひとり(one by one)で聴衆の評価(拍手)を受けさせるべきだった。
繰り返すが、勅使川原三郎の構成力と演出力は際立っている。今後は、自分は出演せず、構成・演出に専念することを切に願っている。